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四国遍路 一人旅 1996-2024 森谷東平もりたにとうへい.
1996年、53歳で歩き遍路を始め、中断後長く四国に行かなかった。2024年、80歳で高知駅から再開し、29日間675kmを歩いて愛媛県松山市にたどり着いた。結願までには、まだ37の札所を残しているが、ここで区切って、近い将来この続きをするつもりだ。日記は、旅行中にWordPressのスマホ版に音声で入力しインターネットで公開した。初めての試みである。

これまで歩いた経路、札所、宿、峠 ー 図をクリックすると拡大します。

その1 徳島県、高知県(前編) [1996.12.28 ~1998.12.29] 1番 〜 30番

50歳代の中頃、勤務、家庭、健康のどれもがうまくいかない状況にあり何も手につかないような日々が続いていた。それを一つ一つ解決しようとしたけれど、物事は何も変わらない。その時、これまで聞いたことがあるけれど一度もしたことがない「歩き遍路」を冬休みにやってみようと、何も知識がないまま四国に来た。

1996.12.28 第1番札所霊山寺山門にて   境内の売店で購入した装束一式を身につけ、緊張している。

第1番札所から西に歩いていく。ふと畑を見ると、農作業をしていた方が手を休めて私の方を向いて手を合わせている!衝撃が大きかった。あまりのことに、気づかないふりをして先を急いだ。あの方は、遍路を開始したばかりの私の無事を祈ってくれたのだろうか?それとも、「同行二人」と言われるように私に寄り添って旅をしている弘法大師を拝んだのだろうか?手を合わされた理由はわからないが、遍路開始早々、この土地の方の信仰心の厚さを間近に感じ心が引き締められた体験だった。

遍路の最初の夜は、第10番札所切幡寺近くの民宿。3人の同宿者と夕食を共にした。ご飯をよそってくれながら、宿の女将おかみが、「この方は満願で、明日第1番に戻りお礼参りをするのですよ」と、若い女性のお遍路さんを紹介した。88のお寺を廻った人を初めて目の前にしたシーンは今でも眼に浮かぶ。2日目は、南の山道に入り、杉林が茂る山中にある「番外霊場・柳水庵」に泊まった。宿泊者は私だけで、高齢のご夫婦が食事などのお世話をくださった。夕方、長い縁側の戸袋から10枚ほどの雨戸を次々と鴨居に滑らせていくのを手伝う。長い縁側、戸袋、雨戸、鴨居、階段、二階の出窓と欄干など、その建物の構造が小学生時代に住んだ荻窪の家にそっくりだった。3日目は、山奥の第12番札所焼山寺に参拝。そこから東へ長い坂を下りて行き徳島の街の中にある札所を参拝した。宿で会ったご夫婦とお寺で再会。ご夫婦はマイカーを使った遍路旅であった。

マイカーでお遍路をしているご夫婦と。本堂、大師堂でのお参りでは、「○○ちゃんの病気が治りますように」とお祈りされていた。

徳島の街では、「ご接待」を何度か受けた。現金を渡されて、最初は戸惑ったが、お礼をして日付、住所、名前、年齢を記述した「納め札」を渡した。ある時、二人の若いお兄さんが腰をかがめ右手を下げて、こちらへおいでください、と案内する。ついていくと喫茶店。勧められるままに椅子に座った。もの静かで貫禄のある方が来られて前に座り、「私は、歩き遍路の方にはいつもご接待するのです。お好きなものをお召し上がりください。」とのたまう。その方がテーブルに置いた納め札を見てハッとした。先日同宿の方が話していた「錦札」である。錦札は、88のお寺巡りを100回以上実施したお遍路のみが使うことができる特別な納め札だ。(私の納め札は白、満願5回で緑、7回で赤、25回で銀、50回で金・・・となるそうだ。)
6日間の歩き遍路をして、1997年正月2日に第23番札所薬王寺を参拝した。お寺は、正月の着飾り客で賑わっていた。将来またここから遍路の続きをしたいと漠然と思いながら、大阪の家に戻った。自宅を離れて、6日間毎日歩いて寺を参拝するという、これまでにない体験をしたわけだ。帰宅当初はただそれだけだと思った。
遍路の後、自分が生きているうちにしなければならない、と考えた2つのことに取り掛かった。一つは、先の大戦後に私を満州から連れ帰った亡母が生前病床で書いた散文詩を出版することで、出版社と連絡を取るなど行動を起こした。もう一つは、会社での研究開発の成果をまとめるため、いくつかの英語論文を書き論文誌に投稿した。1年あまりの作業の結果、亡母の本は翌年1998年3月に「森谷安子著、悲母 – あの子は満州の土になった」として出版された。また、その年5月には、博士論文を東京大学に提出し、11月に学位を授与された。このようなことは、当時の混乱した状況下でなくても自分の能力を超えたもので、あの6日間の遍路がきっかけになったとしか思えない。

年末に遍路を再開した。

[1998.12.23 ]   徳島県第23番札所薬王寺 – 日和佐浦 – 鯖大師 (鯖大師宿坊)   [目次へ戻る]
前回の遍路後に起きた前向きの結果に感謝することを念頭に、2年ぶりに歩き遍路の続きをすることにした。徳島県の日和佐駅から歩いて第23番札所薬王寺の山門に立った時は、2年間を思い返して目頭が熱くなった。元気に歩き遍路を開始し、徳島県海陽町の八坂寺(四国別格霊場第4番札所鯖大師)に参拝、ここの宿坊に宿泊した。

[1998.12.24 ]   鯖大師 – 高知県佐喜町民宿徳増   (民宿徳増) [目次へ戻る]
鯖大師では早朝のお勤めに参加した。9時、歩き遍路に出発。11時宍喰ししくい。ここが徳島県最後の村で、1km南の甲浦かんのうらから高知県の村となる。白浜、生見いくみ、東町を過ぎて野根大橋を渡ってからは、右手の山が海岸線まで迫り、人家もほとんどない道が延々と続く。日がどっぷり暮れた18時半に、今日の宿、民宿徳増に電話して車で迎えにきてもらった。

徳島県から高知県に入ってから室戸岬までは、山が海岸まで迫った道が延々40kmほど続く。

[1998.12.25 ]    民宿徳増 – 第24番札所最御崎寺   (最御崎寺宿坊)  [目次へ戻る]
7時50分、昨夜歩きを中断した地点まで車で送っていただき、遍路を再開した。12時45分、室戸岬の青年大師像に到着。徳島県の薬王寺から75.4kmを歩き切り、ここ第24番札所最御崎寺に参拝できた喜びは大きかった。           

[1998.12.26 ]  最御崎寺 – 第25番札所津照寺しんしょうじ – 第26番札所金剛頂寺 – 奈半利 (ホテルなはり)   [目次へ戻る]
7時45分、宿坊を出発。10時、津照寺参拝、11時半、金剛頂寺参拝。18時45分ホテルなはり着。

[1998.12.27]  奈半利 – 第27番札所神峯寺こうのみねじ (国民宿舎あき) [目次へ戻る]
宿を10時出発。11時に奈半利川を渡り田野町に入る。13時50分、神峯寺を参拝。17時50分安芸市国民宿舎あき着。

[1998.12.28 ]   安芸 – 夜須 海風荘       (海風荘 – 夜須町手結南山) [目次へ戻る]
8時30分出発。10時15分、安芸川橋を渡る。16時20分、宿に到着。

[1998.12.29 ] ***第28番札所大日寺、第29番札所国分寺、第40番札所善楽寺 ***   (帰阪)
6時45分出発。9時20分、大日寺参拝。10時40分、戸板島橋でたくさんの冬ツバメを見る。12時30分、国分寺参拝。16時30分、善楽寺参拝。17時30分、高知駅から特急「南風」で帰阪。

孤独な旅 今回は、歩き遍路をする人に会うことが無く孤独な旅であった。徳島県日和佐から高知県室戸岬までの道が、山と海に挟まれ、長い人影のない単調な光景が続き厳しさを感じた。四国遍路は、県別にそれぞれ、徳島県が発心の道場、高知県が修行の道場、愛媛県が菩提の道場、香川県が涅槃の道場、とされているが、室戸までの道が修行の始まりだったのであろう。
高知・善楽寺から先を歩けるのは何時のことだろうか?

渡米 それから半年後、縁あって自分の研究がアメリカ・ボストンのMITで活かせることになり、1999年6月6日渡米した。その後、2001年にニューヨーク州立大学に移籍。
がん 2003年、59歳、大学附属病院のプライマリードクターの指示で、大腸の内視鏡検診を受けた。検診後、未だ麻酔が十分覚めていないときに(米国の内視鏡検診は全身麻酔で実施)検査医師から腸内写真を見せられた。こぶし大の肉腫と面会。最初に思ったのは「人並みにがんになったんだ。じたばたしてもはじまらない」。写真を見ながらストレッチャーに横になっていると、検査医師が外科医を連れてきて、彼が手術をするからと紹介された。何日か後、その明るくエネルギッシュな感じのヒスパニックアメリカ人外科医による開腹手術を受けた。翌朝、その医者にどのような手術だったのかを質問すると、このように大腸の3分の2を切除した、と鉛筆で絵を描いてくれた。看護婦の指示で、点滴のキャリヤーを持って病院の通路を歩く運動を毎日した。5日目に僅かな便が出たら即退院(米国では入院費が高額で、保険会社が最短の入院しか認めない)。自宅では、台所に這って行ってお粥を作った。
1ヶ月経って体力が戻った頃、別の医者から呼び出された。治療の専門医で、会うなり、「どうしても生きたいか?」と言う。どういう意味ですか?と問い返すと、「手術は成功した。今後再発しない確率が50%、再発する確率が50%だ。治療は再発可能性を下げるが辛い。治療を希望するならしてあげるが、自分は勧めない。どうしたいか考えて、1週間後にあなた自身の結論を聞かせてくれ。」とのこと。さらに、「世の中にはどうしても今死んではならない人は居る。例えば、病弱で保護が必要な家族を抱えていたり、自分がいなくなると立ち行かない会社の経営を担っている人だ。あなたがそういう人なら治療をしよう。」と付け加えた。日本の医者なら迷うことなく治療するだろうに、この先生のような理屈もあるのかな?、どうしようか。1週間考えた末、結局再発防止の治療(抗がん剤、放射線)は受けないことにした。CTやがんマーカーの検査のみを続けた。動揺はほとんどなく、その後、がんのことを思い出すこともなく、以前より心身ともに健康になった。
思い返すと、手術を受ける1年前にプライマリードクターから「太りすぎだ、運動をしなさい」と言われて歩いたりゴルフをしたりした。1年で体重が5kg減ってお腹が凹み、運動の効果に喜んだ。が、あれは運動の効果でなくてがん細胞が栄養を横取りしていたのだと思う。おそらく、渡米前の苦しみや、異国でのストレスが発症の真の原因だったのだろう。がんは私に「死」を実感させ、同時に「生」をはっきりと意識させてくれた。人生にとって最も大事なことを気づかせてくれたことに感謝している。大病も人生の大事な過程なんだな。
教師 2009年から10年間は慶應義塾大学附属ニューヨーク学院で物理教師として勤務した。教師は初めてである。高校生と共に勉強し物理教育に目覚めた。身の回りと宇宙に潜む真実をどう理解して易しく優しい言葉で伝えるか、を毎日考えるのが楽しく、人生最高の幸福な時を過ごすことができた。
高齢者の再就職 こうして、66歳から76歳まで高校教師として働いた。アメリカには「定年」がないので、能力や条件が適正であれば高齢でも働くことができる。子育てが終わった主婦が、あらためて資格をとって看護師や教師になることはごく普通に見られる。本人の意欲と実力が最も重視される社会である。日本では、労働人口の不足が声高に叫ばれているが、「意欲ある高齢者」のその意欲に見合った職業への再就職はなお困難な社会であると思う。
帰国 こうして、50歳代後半から20年間の異国の暮らしであったが、多くの方々に支えられ楽しく過ごすことができた。が、渡米前のあの2回の遍路が新世界へ飛び込む勇気を後押ししてくれたと感じている。そして、2019年12月5日、帰国。この翌春から、中国・武漢で発生したコロナウィルスによるパンデミックが起こり世界が変わっていく。

その2 高知県(後編)      [2024.3.26 ~2024.5.14]  30番 〜 39番

帰国して4年余りが過ぎた2024年3月、四国を再訪問することにした。1998年末以来25年ぶりだ。

[2024.3.26 WED] 曇       [目次へ戻る]
(青梅 -> 高知駅) – 第30番札所善楽寺 – 高知 
羽田空港から空路で高知龍馬空港へ。高知駅近くのホテルに荷物を置きタクシーで第30番札所善楽寺に行く。行き先をいぶかる運転手に歩き遍路再開の話をする。17時、夕闇迫る中30番に着く。ここは25年前に遍路を中断したところ。参拝後、寺の売店で金剛杖を購入。宿に向かって歩き遍路を開始した。 [15,096歩 11.22km]  (高知龍馬ホテル)

高知市薊野(あぞうの)の久万川にかかる比島橋にて。「薊」は花のアザミ。

[2024.3.27 THU] 晴       [目次へ戻る]
*** 高知 – 第31番札所竹林寺- 第32番札所禅師峯寺ぜんしみねじ – 桂が浜 ***   
31番、おでん茶店 さあ、久しぶりの遍路歩きで足取りは軽い。高知市街を南に向かって歩き、青柳橋を渡って、吸江ぎゅうこうの路地から、歴史を感じる石畳の階段を登り、第31番竹林寺に参拝。朝食をとっていないのでお腹がすいてきた。お寺のすぐ下に見えたおでんの旗につられて茶店へ。そこに愛嬌はないがおとなしい犬がいて、鳥籠では小鳥がさえずっている。おでんを食べながら、店のおばさんに、キリッとした良い犬ですね、と話しかけた。

この犬は野良犬の子で、多分その生まれのせいだろう、吠えまくり言うことを聞かない悪い子犬だった。5歳になってようやく落ち着いた。かごの鳥は、親にはぐれた小雀をポケットに入れて育てた、という。子犬の境遇を思いやって、なぜか胸が熱くなった。また、スズメはチュンチュンとしか鳴かないと思っていたのにさえずっているのが不思議だった。
坂本龍馬ののれんとともに「たっすいがは、いかん」ののれん。土佐言葉で、「弱気ではだめだ」という意味らしい。ビールは、「水っぽいのはだめだ」ということか?

竹林寺近くの茶店にて。納め札の赤は満願7回以上、左隣の金色は50回以上であることを示している。

32番へ 竹林寺を後にして、下田川沿いを東に、その後南に曲がったところに「武市半平太旧宅及び墓」の表示を見る。幕末の英雄たちを思う。この辺りで、今回初めてお遍路さんに会った。逆打ぎゃくうちの男性。逆打ちとは、第88番札所を出発点として87、86・・・と通常とは逆回りに札所を巡る遍路旅のこと。石土池の公園に出た。池の向こうに見える山が目指すところだ。山林の中にある険しい遍路道を登り第32番禅師峰寺ぜんしみねじに着いた。

第32番札所禅師峰寺にて。遠方に浦戸大橋と桂浜を望む。今日中に、眼下の道を歩いてあの橋を渡らなければならない。

山を下り、浦戸大橋を目指して道を進む。大きな津波避難設備がある。県道14号線に出た。砂浜沿いの直線道路だ。道の南方に太平洋があるはずなのに、津波対策の防潮堤が延々と続き海が見えない。道の両側の砂地にはビニールハウスがぎっしり建てられている。中はよく見えないが、なす、きゅうり、ピーマン、などの野菜が大量に栽培されているようだ。後から、走りながら私に声を掛けてさっと追い越していく男性がいる。「南無大師・・」の白衣をリュックにかけているからお遍路さんだ。マラソン遍路とはすごい。

遍路道沿いにある津波避難設備。

15時40分、浦戸大橋にたどり着いた。この橋の歩道は幅が75cmと狭く、すぐ脇を自動車がブンブン通り過ぎていくので怖い。フェンスにつかまりながら恐る恐る進んだ。橋を渡り終えて脇道を降ると小さなトンネルがあり、この先に今日の宿、民宿坂本がある。トンネルの手前のお寺の門前に掲げられた言葉にひきつけられた。 [30,238歩 22.47km]  (民宿坂本)

宿に通じるトンネルの前にお寺がある。門前にかかげられたことばは印象深い。

[2025.3.28 ] 曇後大雨       [目次へ戻る]
*** 民宿坂本 – 桂が浜 – 第33番札所雪蹊せっけい寺 – 第34番札所種間たねま寺 – 土佐市 ***   
桂浜 朝、民宿坂本に荷を預けて、15分ほど歩き、桂浜に観光に行った。ここに来るのは実に50年ぶりだ。その50年間の人生が一瞬目の前に写り飛んでいった気がした。宿に戻り荷を受け取ってから西に歩く。
33番へ 長曽我部元親の公墓がある。元親の数奇な一生を思う。10時、第33番札所雪蹊寺に参拝。ここで会った逆打ちのお遍路さんのリュックは小さく凹んで随分軽そうだ。聞くと、歩き遍路では荷は極力減らすべきだ、着替えも持たず毎晩洗濯している、と言う。その意見に従い、寺のそばの郵便局に行き、着替えやガイドブックなど2.5kgを自宅に送り返した。この頃から雨が降り出した。寺の前のレストランで唐揚げ定食のランチ。マイカー遍路中という2組のご夫婦と話。皆60代。皆さんが発たれて、私も出発しようとしたら、あの方達が払ってくれました、と店主。恐縮した。
34番へ、大雨 西に向かって、田園地帯を歩いていくと後で呼ぶ声がする。「そちらはドライブの道で、歩き遍路道はこちらですよ!」と女性のお遍路さん。踵を返して、田舎道に入る。田んぼに囲まれた道から山道になる。物置き場の屋根があり、ここで雨宿り。道がよくわからない。スマホの地図でこの先にある川をどこで渡るかなど計画を練る。女性の方もわからないらしく、別れてそれぞれの道を進む。14時半ごろ第34番札所種間寺に着く頃には本降りとなった。寺で出会った2、3人の遍路たちが予定を変更することを検討している。しかし近くに宿は無い。歩き遍路をここで中止するという人もいる。寺の御朱印をいただくと、「以信貫道」とある。信じて道を貫き通す、という意味か。そうだ、この程度の雨で遍路をやめてはならない。私は、レインジャケット、レインパンツ、リュックのレインカバー、折り畳み傘の装備を整えて、大雨の中先に進むことにした。

第33番札所種間寺。到着した頃から大雨となった。

16時ごろ、仁淀川大橋の下で一休み。幸い雨足も弱まってきた。大橋を渡り、土佐市に入った。さらに1時間半歩き市内中心部へ。土佐市は列車の駅がないせいか、その名もこれまで知らなかったが大きい都会だ。ダイソーを見つけたので、リュックの肩に当てて痛みを軽減するものが何かないか探した。女性の店員さんが、「膝あて」を見つけてくれた。肩に使っても具合が良い。17時40分、宿に到着。足に水ぶくれができた。この先歩き続けられるだろうか、と心配する。 [34,463歩 26.61km]  (ビジネスイン土佐)

[2024.3.3.29 ] 晴       [目次へ戻る]
*** 土佐市 – 第35番札所清瀧寺きよたきじ – 塚地峠 - 竜温泉 ***
35番へ 雨は上がって天気は良くなりそうだ。朝食は、ホテルの隣にあるベーカリーショップで摂った。足の水ぶくれも自然に潰れたようだ。問題ないだろう。荷物をフロントに預けて軽装で北へ向かって歩く。田園の向こうの小高い丘の上に寺が見える。同じ道を歩くスイス人青年ポールと共に登る。

第34番札所清瀧寺。ここに来る途中で出会ったスイス•ローザンヌ出身のポールと。

塚地坂峠 第35番札所清瀧寺きよたきじを参拝後、ここに来た時と同じ道を宿まで戻り、ポールとは別れて荷物をピックアップ。12時ごろ、薬局に寄って、親切な店員さんに手伝ってもらい、足の潰れたマメを消毒して包帯を巻いた。南へ歩く。14時、塚地坂峠手前の公園で休憩。峠越えにはトンネルもあるが、山越えの古い遍路道(青龍寺道しょうりゅうじみち)が面白そう。山道を行くと土地の方に会った。その方の話では、塚地坂トンネルが1999年に開通するまでこの山道が南の宇佐と北の塚地を結ぶ生活道路だった、宇佐の新鮮な魚がこの峠道を運ばれた、と言う。その様子が目に浮かぶ。道の最高地点の塚地坂峠からこれから向かう宇佐の街、宇佐大橋、そして海の向こうに横浪半島の先端を望む。古い遍路道を歩くのはとても楽しい。これからは、トンネルを通らず山道を越え、平地でも古道があるときはそこを歩こう。

土佐市塚地坂峠から南方、宇佐の町、宇佐大橋、横浪半島東端の竜温泉を望む。竜には、これから向かう宿と第36番札所がある。
塚地坂峠の降り道で出会ったフランス人。

津波災害の教訓 山道沿いの宇佐町・萩谷に「安政地震・津波の碑」がある。宝永4年(1707年)と安政元年(1854年)の犠牲者の慰霊碑で、石の面に「とりあえず山手へ逃げ登るもの皆つつがなく、衣食など調達し又はあわてて船に乗りなとせるは流死の数を免れず」と書かれている。この教訓が生かされ、近年起こった昭和南海地震(1946)による津波の犠牲者は1名のみだった。
17時ごろ、今夜の宿の竜温泉、三陽荘に到着。 [30,256歩 22.48km]  (三陽荘)

[2025.3.30 ] 晴       [目次へ戻る]
*** 三陽荘 – 第36番札所青龍寺しょうりゅうじ – 高知 ***
36番へ 宿から歩いて30分、青龍寺に到着。ここは、空海が中国留学で密教を学んだ西安の寺と同じ名前だ。

第36番札所青龍寺

参拝後、奥の院へ行くつもりで寺の裏山を歩いている時、不覚にも足を滑らして頭にけがをした。お寺の小僧さんが救急車を呼んでくれ、私は高知駅そばの大病院に連れて行かれ治療を受けた。[6,987歩 5.94km]  (ホテルパシフィック)

[2025.3.31] 晴れ *** 高知 – 春野 ***     [目次へ戻る]
今日は休養日とし、昨日の事故でリュックも壊れたので、モンベルに行き、新しいものを購入し、疲れ難い背負い方などを教えてもらった。午後、高知市の南、春野にある温泉に行く。  (はるのの湯)

[2024.4.1 ] 晴       [目次へ戻る]
*** 春野 – 第36番札所青龍寺 – 船 – 横浪 – 須崎 – 土佐久礼 ***
巡航船 はるのの湯から、ハイヤーとバスを使って、遍路を中断した第36番札所に戻った。当初は横浪半島を縦断する予定だったが、これをやめて、宇佐大橋を北に渡り埋立という小さな港から船に乗った。空海も利用した?由緒ある巡航船ということだ。船には地元のご夫婦も乗っている。聞けば、この船に乗るのは初めてで、お二人とも遠足のように船旅を楽しんでいた。およそ1時間の船旅の後、横浪で下船(11時)。あたりは田舎で、昼食を摂るところがない。

国道遍路 西へ西へ歩く。目の前の山を鳥坂トンネルで越える。まだ田舎道が続く。14時ようやく須崎の街に到着。大間駅前の得得とくとくといううどん屋で空腹を満たした。そこに働いている女性に、今朝ハイヤーの運転手からもらったボンタンをあげた。持ち歩くには重すぎるので。今夜の宿として予約していた旅館に電話を入れると、今ごろ須崎?遅いなあ、遅くとも19時までに着いてもらわないと困る、と女将おかみのきついお言葉。国道56号線を急ぐ。新荘、安和と過ぎ、17時、焼坂やけざかトンネルを17分かけて通り抜けた。国道から左手の地方道に入り、18時10分、土佐久礼くれの福屋旅館に到着。この町は、「土佐の一本釣り」という劇画?で有名らしく、「福屋旅館」が登場する場面の原画が額に入れて飾ってあった。
反省 今回、計画が不十分だったと思う。宿に着くのを急いだので、横浪ー須崎を鳥坂トンネル、須崎ー久礼を角谷、安和、焼坂やけざかの3っつのトンネルを使った。どの峠も古い遍路道が残っており、トンネルでなくそれらを通った方が楽しかったろう。ただし、焼坂トンネルを過ぎると久礼まで宿が無いので旅程を工夫しなければならない。歩き遍路の計画の難しさであり面白い点だ。[40,450歩 30.05km]  (福屋旅館)

[2024.4.2 ] 晴   *** 土佐久礼 – 桜並木 – 七子ななこ峠 – 窪川 ***    [目次へ戻る]
満開の桜 朝食時、同宿の秋元青年と話をする。昨日は焼坂やけざか峠を山道で越えたそうだ。自宅は栃木県南部で、アメフトの選手。8時、宿を出発。ここから次の第37番札所に行くには3っつのルートがある。一番南の「大阪谷遍路道」を選んだ。いちばん遍路道らしいから。久礼の街並はすぐ終わり、大阪谷川に沿って歩いて行くと、あっ、と驚くような桜並木が現れた。川に沿って満開の花が数百メートル続いている。地元のご婦人方がお花見をしている。飛び入りの私を歓迎してくれる。

土佐久礼・中大阪、大阪谷川沿いの桜並木で。

七子ななこ峠へ この集落を過ぎると、車にも人にも出会わない。10時50分、奥大阪というところ。高速道路E56の高架橋の橋桁の下に来た。橋桁の高さは100メートルはあるだろう。そこを過ぎて舗装道路が終わり土の道になったところで休憩。ここに、4弁の花びらの白い花の群落がある。シラユキゲシらしい。

シラユキゲシの群落。

狭い田の中の道を行く。トイレのある遍路休憩所で逆打ちのご夫婦に会って山道の様子を伺う。12時、七子ななこ峠に向けて登山開始。急斜面を横切る山道もあり、慎重に進む。

山道の最後は太い丸太で作られた段差が大きく急な階段で、最初が63段、続いて30段。しがみつくようにこれを登って、13時15分、広い駐車場に出た。ここが七子ななこ峠(標高289m)だ。展望が素晴らしい。今朝発った土佐久礼くれの街並みは山のかげで見えないが、歩いて来た大阪谷や高速道路E56が眼下に見える。

七子峠からの展望。高速道路は,高知と須崎、黒潮拳ノ川を結ぶE56。その下が大阪谷。尾根を越えた最初の岬が青木崎。青木崎の左手の山のかげに土佐久礼がある。青木岬に連なる山に凹みがあるところが焼山峠だろう。島は神島。最も遠い陸地は横浪半島。昨日は、あの半島の一番遠いところから土佐久礼まで来たのだ。

窪川へ 七子峠からは、窪川を目指して遍路道を伝って歩いていく。道沿いには、所々に古い石の仏像、墓、道標がある。「アマンド様」と言う案内板に引き付けられた。それによると、天保の飢饉の頃、現在の広島県三原近辺に居た尼僧が衆生の救済を願って四国遍路を始めこの地で力尽き村人に葬られた。それを知った三原の人たちが石像を作りここまで運びまつった。三原では、尼を偲んで始まったのが沼田本郷夏祭り(やっさ踊りなど)と説明されている。
道は国道56号に合流し、夕闇迫る中、18時過ぎに今夜の宿、ファミリーロッジ旅籠屋はたごやに到着。この宿は、アメリカのモーテルの方式をそっくり真似したものだ。近くにある道の駅の食堂で夕食を摂った。 [31,184歩 23.17km]  (旅籠屋)

[2024.4.3] 雨   
旅籠屋 – 第37番札所岩本寺 – 旅籠屋    [目次へ戻る]
雨の中、窪川駅近くにある岩本寺を参拝した。窪川は小さな町だ。昨夜泊まった宿に戻り連泊した。明日は一時帰京する。 [9,652歩 7.17km]  (旅籠屋)
[2025.4.4] 曇 窪川 – 青梅           [目次へ戻る]
一時帰京 36番で怪我をした後処理のため、大事をとって帰京した。
今回歩いた遍路の経路を図で示すと次のようになる。

再出発 2024年5月、窪川に戻り、遍路を再スタートした。次に目指す札所は足摺岬の第38番だ。窪川の37番から足摺岬の38番まで80.7kmで、四国遍路みちで札所間の道のりが一番長い。この区間に次いで長いのは日和佐の23番から室戸岬の24番の75.4kmである。25年前にそこを歩いたが、山が海辺まで迫り人家もない道が延々と続いていたことを思い出す。それに比べれば、今回の区間はいろいろな村や町を縫って行く。どんな景色、どんな出会いがあるのだろうか?

[2024.5.4 SAT] 快晴           [目次へ戻る]
*** JRで、青梅から高知県四万十町窪津へ ***          
東京駅7:30発新幹線。富士駅付近で富士山。雪は九号目より上。裾野まできれいに見えた。ー 読書:松永有慶著「空海」。他宗教を否定する一方で最終的には密教の立場からそれらを全肯定する、と言う。大きな矛盾を含む考え方だ。が、現代の日本人の思考法に近いとも思う。ー 岡山で乗り換え、10:05発特急「南風」。遠方に金甲山を望む。ハレー彗星を見に行った遠い幸せの時があった。土讃線阿波池田から山が急に深くなる。東西方向に連なる四国山脈に対して吉野川が南北に山脈を横切っている所だ。壮大な地殻変動の歴史を想う。高知で乗り換え。13:49特急あしずり5号。1号車の前半分の指定席は満席なのに後半分の自由席はガラガラ。お隣の女性客に断って私は自由席に移動した。車窓から田植え前の水田が見える。前回泊まった桂浜近くの民宿で、ご飯が美味しいのにびっくりした。37番札所近くの似井田が良い米で有名だそう。14:57窪川駅到着。今夜の宿は「うなきち」という本業うなぎ料理店。予約の電話を入れたとき、チェックインは 15:00-15:30の30分の間に、と言われびっくり。それに合わせて列車を選んだ。部屋の中には、2方向の窓、ベッド、トイレ、お風呂、洗濯機、乾燥機が揃っていて最高だ。階下のお店は満席で外にお客さんが並んでいる。注文していた特上の鰻丼をいただいた後散歩。37番札所、岩本寺に参拝。
ここ、窪川に立つと、次に目指す足摺岬は気が遠くなるほど遠くに感じられる。頑張って行こう!
[6,900歩]  (民宿うなきち)

[2024.5.5 SUN] 快晴       [目次へ戻る]
*** 窪川から土佐佐賀、白浜へ ***
                
5時半に起き、6時半出発。国道のコンビニでサラダやパンで朝食。昼食用におにぎりも買った。国道を歩いて約1時間。弘法大師の像のところから田舎道に入る。さらに森林の中の山道を行く。すぐ急な下り道が続く。片坂の峠越えだ。昔の遍路道を保存してある区間である。

窪川の南にある、片坂峠遍路道。

 9時、山道を降りたところにある小さな休憩所で一休み。そばの地面を、小柄な蛇が這っている。中村元「ブッダのことば」の冒頭にある「蛇の章」を思い出した。「・・・この世とかの世をともに捨て去る。蛇が脱皮して皮を捨て去るようなものである。」この世とかの世、の意味がよくわからない、でもそう、何かを捨て去り再生したい思いで四国に来たのだ。あの蛇はそれを教えてくれたのだろう。
田んぼが広がるところをのんびり歩いて行く。登り坂になったところで国道56号に戻り、坂を登りきった道のはたにある拳ノ川休憩小屋で昼食。11時過ぎに出発。1時間ほどで前の小屋より大きい13号佐賀遍路小屋に到着。

13号佐賀遍路小屋

野宿遍路 この遍路小屋は野宿によく使われているようだ。国道から少し離れた場所にあり、近くに飲料水やトイレも整っていて条件が良いから。上の写真で正面の大師像の右の壁に貼られている表は、野宿遍路者ための情報で、野宿候補地、善根宿(無料の宿)、安い宿、などが一覧されている。実は、私も野宿をするつもりで、軽量の寝袋などを持ってきているが、遍路道でどのように野宿するかの経験、知識は皆無であり、実行できるかわからない。
先着のご夫婦のお遍路さんは、連休を利用して埼玉から来たそうで、今日列車とバスを利用して帰るので急いでいる。ご夫婦が先に発ち、続いて私も出発。国道西側にあり、伊与木川に沿っている旧道遍路道を行く。長い長い道だ。疲れてきた。国道の方が、距離が短いと思い国道の歩道に変更。
疲労 かなり疲れてきて、歩いては休みを繰り返す。14時ごろ、国道脇の私のそばに1台の車が止まった。大丈夫ですか?と、車の人。私はびっこを引いていたようで、よほど危なげに見えたのだろう。奥さんが車から降りてお菓子をくれた。ありがたく思い、早速荷物を降ろしていただいた。前回はこんなことがなかったのに、今日はちょっとしんどい。ローソンで休憩。そのすぐ先に「なぶらの道の駅」があったが素通り。遠くにたくさんのこいのぼりを並べて泳がせているところが見える。以前ニュースで見たことがある黒潮町のこいのぼりだ。国道の先にある横浜トンネルを避けて、土佐佐賀の街に降りて行く。疲労が激しく、伊与木川にかかる橋のたもとでダウン。そこへ通りかかった車に頼んで白浜まで乗せてもらった。17時に民宿ニュー白浜に到着。親切な女性の運転手(りかチャン)は以前ここの民宿兼喫茶店でバイトをしたことがあるとのこと。この宿は、太平洋がすぐ目の前に迫っているすごい立地だ。お風呂に入ったあと、19時に夕食。神戸から来た女性のお遍路さんと話をしながら。彼女も歩き遍路を途中でやめ列車で白浜駅まで乗って来たとのこと。今日はよく歩いた。35,000歩以上。明日は、休養日として、長距離の歩行はあきらめて、およそ10km先に宿を予約した。 [35,272歩 26.21km]  (民宿ニュー白浜)

[2024.5.6 MON] 雨       [目次へ戻る]
*** 土佐佐賀から伊田へ ***  
豪雨と海鳴り 5時半に起き、7時過ぎに歩いて白浜駅へ。電車で2駅目の土佐佐賀で降りる。昨日歩きを中断した地点に戻るためだ。駅の隣に軽食喫茶を見つけ、モーニングセットいただく。新鮮なサラダが嬉しい。出会った客は、窪川と佐賀で飲み屋を経営しているご夫婦、川柳を趣味とする婦人とその友達など。8時半出発。パラパラ雨が降り出し、しばらくしてザーザー雨になる。国道に出た。昨日通るのをやめた横浜トンネルの出口付近。ここから歩道を歩いて行く。左手眼下には太平洋が広がり、海岸線に沿って並ぶ岩に大波が当たり砕けるさまがおもしろい。大映映画の冒頭のシーンみたいだ。海全体が「ゴー、ゴー』とうなっている。雷みたいだ。これが海鳴りというものだろう。

黒潮町・土佐佐賀から白浜海岸へ。大雨の中を歩いていく。海鳴りが聞こえる。

左手下に土佐大規模公園が広がっている。雨空とあって人影はない。昨夜の宿、民宿ニュー白浜の前を過ぎ、海に突き出た小さな岬にある展望台、白浜休憩所、で荷を下ろしこのサイトに文章を打ち込む作業をした。
製塩、たこ焼き、びわ ザーザー雨の中を1時間歩いて行くと、ネットをかぶせた大きな木組みとビニールハウスがある。「塩丸」と看板があり、天日による製塩所である。ネットは、塩の濃度を上げるための流下装置かな?ビニールハウスはさらに濃度を上げる工程のようだ。さらに歩いて、13時半、「たこ焼き屋」がある。この店のテーブルでランチ。たこ焼きに満足して再び傘を持って歩く。井の岬トンネルを通過。本来は。このトンネルを通らずに南を大回りして南端の井の岬経由が遍路道である。坂を下り、伊田トンネルの入り口で、橙色の実がたくさんついているびわの木を見る。

黒潮町灘の製塩所、「塩丸」


伊田観音堂に到着。ここは野宿遍路の人々が重宝するところらしい。(泊まって良いとは書いてないが、畳のある御堂に鍵はかかっていない。)地元の婦人会が管理をしている。15時、今日の宿である民宿「たかはま」に到着。ご主人の越路さんは東京出身の若い方。経営を引き継いで1年ということだ。夕食では、埼玉市と滋賀県出身のお二人と広範囲な話で盛り上がった。埼玉出身の方77歳は、四国遍路に数回来ており、熊野古道や観音めぐりも経験している。その中で、四国遍路が一番面白い、と。理由は、旅する時に目にする景色が多様である、ということだ。 [16,766歩 12.46km]  (民宿たかはま)

[2024.5.7 TUE] 快晴       [目次へ戻る]
*** 伊田から中村へ ***
今朝は雨も上がり好天気だ。6時40分朝食。窓の外はすぐ海で、遠くに見える陸地の端は足摺岬だという。8時前に宿のご主人、越路さん、に見送られて出発。2日前に、歩く道のりが20kmを超えると疲れるし、ゆっくり景色を楽しむことができないとわかった。無理をせず、荷物もできるだけ軽くしよう。浮鞭うきぶち郵便局で着替えや寝袋などを自宅に送り返した。大方という所にタバコ畑が広がっている。珍しい光景だ。そこのコンビニで買い物を済ませて外に出たら、地元の谷さんという方がニコニコして、ご接待です、と現金を渡された。久しぶりのことで驚いたが、お礼をして受け取り、立ち話をした。私が東京から来たと言うと、彼は大学4年間東京にいたと懐かしんでいる。

黒潮町大片で会った谷和(たにかのう)さん。大学4年間を東京で過ごした後地元に戻りハウス栽培など農業をされている。

谷さんは、近くに見えるハウスできゅうりなどを栽培している。周囲に見える山の名を聞いたら、すらすらと全部教えてくれた。彼は時々山から山へイノシシを追って歩くのだそうだ。そんな話を楽しくしていたら、今晩中村に飲みに行こうかなぁ、タクシーで行かないといけないが、と言う。私は歩き疲れて食事をしたらすぐ寝ないといけない、と飲みに行くのは断った。いつか一緒に飲めるチャンスがあるといいなぁ。
古墳 国道を歩いていくと、下田の口という集落に「高知県史跡・田野口古墳」という案内板があり、階段を登って見学。横穴があり石室が保存されている。そばを流れる川は難読だが、蛎瀬かきせ川。川沿いに田んぼが広がっている。この豊かな土地で、古代に皆の信頼が厚かったおさが眠っているのだろう。
さらに国道を歩いて逢坂トンネルを抜けた。本来の遍路道は、この峠を通らずに海沿いに四万十川の河口に向かいそこから船または橋で対岸に渡るルートだ。そのルートに適当な宿が見つからなかったので今日は逢坂トンネルの先の中村で泊まる。トンネルを抜け、長い坂道を降りると古津賀という団地に出た。これから行く中村のベッドタウンなのだろう。
中村の女子高生 国道沿いの道幅が広い歩道を歩く。たくさんの小学生が自転車に乗り私に挨拶をしていく。とてもかわいい。後ろから女子高校生が自転車で来て私に挨拶をした。はきはきとした素直な良い子。私が、高校の物理の先生をしていたんだ、と言うと、物理ってなに?理科だよ、などと話をして歩く。彼女は地元の農業高校生。まだ東京に行ったことはないが、将来東京で働きたいと言う。四国はとても良いところだね・・・と話すが、中村には働くところがない、四万十川もそんなにきれいじゃないし・・・という高校生の話に言葉がつまる。この子のような良い子が地元に残らなかったら四国の街はどうなるんだろう?最近メディアが伝える「消滅可能性自治体」の現実を目の前にしたような気がして悲しくなった。高校生の幸福な人生、四国の未来を祈りたい。
中村の民宿で 四万十川の支流、後川にかかる大きな橋を渡り街中に入る。中村は想像した以上に都会だ。16時、駅の近くの民宿に到着。宿泊客は、遍路は私一人だけ、他にサーファーと工事関係者がいて定宿にしている方たちのようだ。工事関係者の若者と話。近くの橋の塗装が仕事で、数週間かかる工事とのこと。私も会社に入ったばかりの頃化学工場で働いたことがあるので、若者の仕事が想像できる。一人で切り盛りしている女将がお酒と料理を持ってくる。山菜料理が美味しい。高知では、どこでもお酒は土佐鶴ということだが特別美味しい。グレードが高かったのか?女将の一人息子は優秀な方で、国家公務員3年目のお役人で、現在は地方の業務を修行中で転勤が多いということだ。土佐は、幕末・明治に多くの優れた政治家を輩出させた土地柄だ。日本を背負う人になって欲しい。 [27,958歩 20.77km]    ( 民宿中村)


[2024.5.8 WED]. 晴れ       [目次へ戻る]
*** 中村から久百々くももへ ***  
7時過ぎ、女将の大杉さんに見送られて民宿中村を出発。わすれがたいとても良い宿だった。渡川大橋を渡り四万十しまんと川に沿って堤防上の道を歩いていく。

渡川大橋から四万十川下流を望む。見えている橋は高速道路E56(中村宿毛道路)の新四万十川橋で右の山のトンネルにつながっている。

気分は爽快だ。10時ごろ、木造の建築物があり道路から木橋が渡っている。実崎樋門さんざきひもんという水門だ。四万十川とその支流の深木川の合流地点に設けられ、津波、高潮の際に本川からの逆流防止のために建設された水門とある。その水門を覆う建築が和風で美しく見とれた。写真に深木川は写っていないが、堤防の下にトンネルがあるのだろう。

実崎樋門(さんざきひもん)

実崎樋門からしばらく歩いていくと、県道321号線は四万十川を離れて津蔵淵つくらぶち川沿いに山の中に入って行く。
イギリス人 11時、四万十川野鳥自然公園で休憩。そこでイギリス人のJesに会った。

イギリス人のJes。短パン、ゴムぞうりで、ほぼ毎日野宿の歩き遍路しているそうだ。イギリス人には高知は暑すぎるのだろう。

Jesの、短パンにゴムぞうりといういでたちに驚かされるが、話を聞いてさらにびっくり。第1番札所からここまで14日?間、雨の日1日を除いて毎晩テントの野宿泊だったと言う。さらに、遍路旅は足摺岬で切り上げて、次は島根県から青森県の大間崎まで本州縦断を歩く計画だと言う。すごい!さすが七つの海を支配した民族の末裔だ。ここでランチにおにぎりを食べることにしてJesと別れる。
国道321号の先には新伊豆田トンネル(1620m)という長いトンネルがある。トンネル越えは避けたい。
伊豆田峠越え 13時ごろ、峠越えの標識に従い、右手の道路に入る。古い伊豆田隧道に通じる道らしい。現在はその隧道は完全に廃棄されているようだ。道路脇に、遍路古道の道標がある。伊豆田峠越えの古い山道で、真念庵まで1.5kmとある。これは面白いと山道を登って行く。

伊豆田峠越えの遍路道。1時間30分このような荒れた道が続く。山道を降りたところに真念庵がある、’

アップダウンがあり険しい道だ。ここを弘法大師、そしてその後多くのお遍路さんたちが歩いたことを実感する。この道は地理院の地図には記されていない。40分登って峠に到着、さらに40分降って14時半、真念庵に到着。江戸時代、「四国遍路の父」と呼ばれる真念により建立された大師堂である。昔、遍路達はここにあった宿坊に荷物を置いて、軽装で足摺岬の37番金剛福寺に巡礼したという。今回、伊豆田峠越えの道も真念庵も誰一人出会うことがなく静かな旅だった。
遍路墓 真念庵を発ってしばらく行くと、山道に「娘巡礼記に登場する遍路墓」の案内板があり、小さな自然石のお墓がある。高群逸枝の名を知らなかったので、その人の墓かと思ったが、そうではなく彼女の旅行記に出てくる墓である。自然石に刻まれた文字は、福岡県福岡市大工町重松貞女云々、と読める。遍路道には多くの古い墓が見られるが、著者がとりわけこの墓に心を惹かれたのは、彼女と同じ九州の女性であるためか、あるいは自分と同じ「若い女性」の墓と読み取ったからではないかと想像する。

高群逸枝の「娘巡礼記」に登場する墓。 

高群逸枝と娘巡礼記 興味を持って、後日調べて見た。娘巡礼記:大正時代に、著者、高群逸枝が24歳の時、自分の再生を目指して四国巡礼をした紀行文学。逸枝は、師範学校中退の才媛だが、家庭は貧しく、新聞社の職を失い、三角関係のもつれもあり、「捨て身の脱出」で四国遍路に出発。両親も旅を認め、若い娘の一人旅に好奇の目が注がれる中である。1918年(大正7年)、わらじ履き、金剛杖、菅笠、白装束など、の遍路姿で、九州熊本市を出発し、船で八幡浜に渡った後、43番明石寺めいせきじから逆打ちでまわり、44番大宝寺だいほうじで打ち納めた。幸い、「お爺さん」73歳が大分から同道し、あたかも従者のように逸枝を助けたが、野宿など危険も多かった。所持金も尽きて、お爺さんが「修行」と称して乞食をして凌いだ。逸枝は、旅をしながら自分の体験記を逐次新聞社に郵送して「娘巡礼記」として連載してもらうという非凡な行動をする。その記事が評判になり、帰宅後に仕事を得る機会を得るとともに、恋愛トラブルも解消し翌年婚約をした。結果的に再生を果たしたわけだ。しかし、婚約相手はエゴイストで逸枝は彼に「曲従」する一生を送ることになる(山下悦子「小伝 高村逸枝」による)。
「娘巡礼記」と「お遍路」 新聞に連載された「娘巡礼記」が本として出版されたのは逸枝が他界後の1979年であり、自身の処女作ともいえる文章全体を生前に読む機会はなかった。その代わり、所持していたメモを元に、新たな本「お遍路」を1938年に執筆出版している。中公文庫の「お遍路」を読むと、真念庵の近くで見た遍路墓はその事実のみが簡単に触れられているだけである。これに対して、「娘巡礼記」45節「遍路の墓」は3ページを費やしている。その一節は、「・・・暫くその墓のかたえの草の上に座し墓標に手を置き、じっと落日を眺めながら色々なことを考えた。自由! 私は突然躍り上がるようにして心から叫んだ。自由な生、自由な死・・・然り、自由は放恣ほうしじゃない。真の孤独に耐え得る人にして始めてそこに祝福された自由がある。・・・・・」「遍路のみ墓よ、さらば静かにおわせ。生より死へ・・・有為より無為へ・・・道は一路であるものを、ああ大悟徹底とは大なる諦めである事を今に及んで知ることができた。」このように、遍路墓との出会いは逸枝に大きな啓示を与えた重要なエピソードである。
業績と人生 その後、逸枝は学問と詩作に専念し「女性史学」の創設者と言われる業績を残した。2022年に高群逸枝を特集した書籍が出版されていて、逸枝の業績とともに多難な人生を知ることができる。
自らを捨てる旅 岩波文庫の「娘巡礼記」を図書館で見つけて読んだ。大正時代の「遍路」の悲惨とも言える状況が描かれている。当時の遍路は、多くの場合、家業の失敗や業病によって家郷かきょうに居れなくなった悲運の人々が、おのれ自身を捨てに行く旅であった。白衣は「死装束」であり、金剛杖は行き倒れた時の墓標。「巡礼記」中に、新しい墓にそれら所持品が添えられているのを見る記述がある。「遍路に行く」や「お四国へ行く」は「不治の病である」、あるいは「夜逃げをする」、と同義語であり、遍路たちが「修行する」は「乞食をして金や食べ物をもらう」という意味だったと、「巡礼記」解説(堀場清子)にある。逸枝が遍路をした年(大正7年、1918年)は米騒動の年であり、そのような社会的混乱や経済的困難が背景にあったのかもしれない。
再生としての遍路 当時、遍路の多くが乞食同然で自分を捨てる旅であったのに対し、逸枝は、遍路(巡礼)を「自身を再生させる旅」と位置付けている。(用語:四国遍路、観音巡礼、と使い分けるのが伝統であるが、逸枝は混用している。)遍路を再生の旅とするとらえかたは、逸枝が自身で考えついたのか、書物などで学んだのかは、私の知識不足でわからない。しかし、「よみがえり」は多くの宗教で普遍的に見られる概念であるようだ。キリスト教で重視される、死んだイエスの「復活」、はその典型であろう。今日遍路を志す人には、「四国」=「死国」を巡ったのちに以前と異なる人生を歩む再生を願っている方々も多いのではないか。
干渉縞 遍路墓を後にして、16時、ようやく山道を終え市野瀬川次いで下ノ加江川に沿って歩く。地図の上では海はすぐ近いはずなのに、木が遮っているのか見えないまま坂道を上がって行く。17時ごろ、ようやく眼下に海が見え始めた。小さな川の河口がある。その河口の狭まったところに波が次々到着し、河口の内部にきれいな干渉縞を作っている。物理の教材だ。ビデオ撮影をした。17時半、久百々くももの宿に到着。 [40,613歩 30.18km]  (民宿くもも)

河口に寄せる波が干渉縞を作っている。遠方に布岬と森山(96.1m)。伊豆田峠を通らずに四万十川河口から海沿いに南下して布岬付近に通じる遍路道もあるようだ。次回歩いてみようか。
中村〜久百々マップ クリックすると拡大図

[2024.5.9 THU] 快晴       [目次へ戻る]

*** 久百々くももから足摺岬へ 第38番札所金剛福寺 ***.   
ダルマ朝日修行僧 5時ごろ、民宿くももの前の浜辺に出て、日の出を待つ。東の空が朱色に染まっている。朱色の特に濃い部分から太陽が点となって現れた。次第に朱色の半円が大きくなり、水平線と接するあたりが横に伸び、ダルマ型になった。素晴らしい早朝のドラマだ。思わず手を合わせた。一緒に朝日を鑑賞した同宿の方は北海道から来た修行僧で、野宿遍路をしていて昨夜は久しぶりの民宿泊まりだったとのこと。

ダルマの形になった。「ダルマ朝日だ!」
水平線に、もう一つの太陽が頭をのぞかせているように見える。
日の出を眺める同宿の戸松さん。戸松さんは、北海道の修行僧で、遍路はほとんど野宿。昨夜は久しぶりの民宿滞在ということだ。頭は自分自身で剃っている。

大岐海岸 6時半、宿を発つ。7時半、きれいで大きい砂浜に出た。大岐海岸だ。波があり、サーフィンを楽しんでいるのが見える。浜に降りて、渚を歩いていく。

大岐海岸
大岐海岸の渚を行く修行僧の戸松さん

(以下、しばらくスマホのWordPressに直接音声入力)浜から上がり、海に沿った崖の上の遍路道を行く。8時13分、県道321号から左に降りる遍路道、窪津7.6kmとある。9時33分。以布利に到着。バス停で一休み。窪津分岐に到着、窪津まで4.7km、金剛福寺まで13km。
以布利遍路道 10時8分、左に折れる海岸ルートの標識がある。古道らしい。ここを進むと、狭い山道で、ロープも張ってある。疲れているので、滑落しないように気をつけなければならない。

以布利遍路道 急な坂が続く

10時33分舗装した道路27号線に出た。10時46分個人経営のお遍路休憩所、てまり、に着く。休業中。てまりは2階建てでよくできているけれど、ゴミが散乱し荒れていてもったいない。10時53分県道347/27号に出た。窪津へ1.9kmという標識。11時、県道から山に登る金属製の階段を見つけ、そこの日陰に腰掛けて昼食。11時25分出発。12時、「宗田カツオ」の工場を見つけ、見学をした。今はメジカと言う魚を茹でたものを水切りしているところ。この後、薪で燻製して、さらに乾燥して出荷する。これを大阪や北海道の会社で粉末のダシに加工する。作業している方が、水切り中のものを試食させてくれた。

宗田カツオの工場 主にメジカと言う魚を茹で、乾燥、燻製後出荷する。その後、粉末のダシに加工される。

さらに歩いて、窪津の大漁屋という商店に到着。今朝取れたばかりのカツオなど新鮮な魚を売っている。あんぱんを買って食べ、12時半出発。その後長い長い県道27号線の舗装道路を歩くのがつらい。自分に関わりの深い愛してやまぬ人の名前をつぶやきながら歩く。東明、安子、芳子、順子、東悟、広美、東也、華子、東二郎、久美子、Margie、Tom。皆の幸福を祈る。案内板は、38番まで7.4キロ。まだ2時間以上だ。道路沿いには家もなく、海も見えない勾配9度の急な下り坂が延々と続いている。インターネットの接続状態がわるい。自分の位置がわからなくなった。とにかく歩くしかない。
足摺岬到着 15時、案内板が現れ、38番札所まで600m。やったー。窪川の37番札所から5日かけてようやくたどり着いた38番金剛福寺。心をこめてお参りした。さらに、今夜の温泉宿までおよそ1km、急斜面に作られた細い道、小さな伊佐漁港を通って宿に到着した。ここは足摺岬の最南端で長碆ながはえという所。はえも難読漢字だが、岩礁の意味があり、四国南部の地名に多いそうだ。 [38,161歩 28.35km]    (民宿西田)

足摺岬公園の中浜万次郎像の下で。ようやくたどり着いた、という思いで記念写真を撮ってもらった。

[2024.5.10 FRI]. 晴れ       [目次へ戻る]
*** 足摺岬 – 中浜峠 – 土佐清水 ***    
朝、ご飯弁当をいただき、7時40分、民宿温泉西田を出発。西田のお兄さんの話によれば、以前はお遍路旅行者も多く、この辺の景気も良かったが、最近はお遍路ブームも去ったようだ、と言う。白い犬が吠えている。次の札所は39番延光寺。55km位ある。そこへ行くルートは4っつあるが、どこを通るかまだ決めていない。これから考えよう。足摺岬に到達できたので気持ちに余裕ができた。西に向かって遍路道を歩いて行く。9時20分、県道27号線と合流。ベンチに腰かけて休憩。女城鼻めじはな岬を望む所。沖に貨物船が足摺岬の方へ進んでいる。

県道27号線から南方、女城鼻(めじはな)という岬。岬の沖合に貨物船が左向き(足摺岬方向)に向かって進んでいる。

高校1年生の時、瀬戸内海にある契島の精錬所から、鉱石を積み下ろした貨物船に乗って、関門海峡を通り玄界灘を渡って、対馬に行ったことを思い出す。出航する時、都はるみの歌を大音量で流していた。玄界灘は波が高く、人生で、ただ1度の乗り物酔いを経験した。あれから半世紀以上経って、今日は、紺碧の海を眺めながら、のんびり歩いている。今夜の宿もまだ決めていない。決めるのはお昼過ぎで良いだろう。ゆっくり行こう。県道松尾トンネルは広い歩道があり歩きやすい。そこを抜けて、大浜という集落で、左の道に入り降りていく。中浜ジョン万次郎生家に向かう道だ。10時54分、道端で休んでいたら、地元の方がもともとの遍路道はこちらだよと、川の向こう側の細い道を教えてくれた。その道を歩いていくと広い道に出て、「ドウシヨウ坂」の表示があるところに来た。弘法大師が歩いていた時、急な坂でどうしようかどうしようかと言ったところ、とあるが現在は広く歩きやすい道だ。

土佐清水市大浜の「ドウシヨウ坂」。空海が難儀をして「ドウシヨウ、ドウシヨウ」と言われたところとか。                                                                              

しばらく歩いて行くと、中浜小学校に出た。階段の下に2つほら穴がある。第二次世界大戦の防空壕を保存したものだ。入り口の穴は、幅高さとも約1メートル、2つの穴は中でつながっていて、奥がどのぐらいあるかはわからなかった。空襲の時に小学生を守るために作られたものだろう。
宗田節が天日干しされている。その横で数人の方が乾燥したものをナイフで削っている。聞くと、すべてこうして手作業でするとのこと。11時28分すぐ近くに港が見える。中浜港だ。

中浜港。中浜万次郎はこの港を出港して暴風に出会ったのであろう。

万次郎の里 ジョン万次郎の生家が近い。万次郎は、この入江から3人の仲間とともに漁に出たんだろう。そして嵐に出会って、沖ノ鳥島に上がったが、飲料水がなく雨水を集めるなど苦労した。偶然通りかかったアメリカ船に拾われて、合衆国に行き数年そこで勉強した。その後日本に送り届けられ、幕末の日米交渉などで活躍した。万次郎の生家(復元されたもの)を見学。表が25メートル、奥行きが15メートルほどで部屋がひとつだけの家だ。隣が生家の跡地で、そこのベンチで昼食をとって万次郎の生涯を思う(万次郎の生涯が近く大河ドラマになるそうだ)。自動車道路に出て、歩いていると、地元の方がこの道より階段を上った方が近いですよ、と教えてくれた。急な階段で、ここが「どうしようか坂」ではないかと思ったほどだ。県道に出た。案内板に、右が足摺岬で、左が清水市街、右斜め下方向が遍路古道(月山神社、延光寺)とある。この中浜峠の古道が面白そう。
中浜峠HenroHelper 13時、中浜峠越えの山道に入る。上り道が続き、道が正しいかと不安になる。遍路道のガイドブックは荷の減量ために自宅に送り返して無い。13時半、このコースの最高点と思われるところに小さな石碑がある。Google マップで調べるとちょうど中間地点らしい。安心して降り道を進む。14時、県道に出た。そこで休んでいると、イタリア人Marcoが山から降りて来た。スマホの遍路用アプリHenroHelperが便利だよ、と教えてくれた。Apple Storeでダウンロードした(無料)。とても良いアプリでこの後ずっと使うことになる。土佐清水中心部にある民宿「はやかわ」に到着。夕ご飯は、街のレストランで、焼きサバ寿司など。宿に戻り、次の札所延光寺までは、一番東のルートをとることに決め、下加江と三原の宿を予約した。 [24,167歩 17.96km]  (民宿はやかわ)

焼きサバ寿司  土佐清水にて
スマホアプリ、Henro Helper。 自分の居る場所が示され、遍路道、宿、休憩所、コンビニ情報、注意点などが詳しい。

[2024.5.11 SAT] 晴れ       [目次へ戻る]
*** 土佐清水 – 大岐の浜 – 下加江 ***.  
7時ごろ朝食。美味しいご飯をいただきながら、86歳の、姉のように優しい、女将と話をする。また遍路に来たときにもここに泊まるよ、と言ったら涙を浮かべたようだった。8時、見送りを受けて出発。土佐清水の街並みを後にして、県道321号線(足摺サニーロード)を北上。9時15分ごろ以布利トンネルを抜け、広い谷をひと跨ぎする「いぶりたけはし?」からは一昨日歩いた以布利の集落と港が一望できる。一昨日左折した27号線との分岐点に着いた。

土佐清水市の民宿はやかわと女将。朝食のとき、優しい言葉で話をしてくれた。

今、幡陽小学校前バス停の小屋で休憩中。10時23分出発。10時40分、坂の途中で自転車を押している男性にあって挨拶してお仕事は?とか聞いたら、元は大工、今は農業をしている。かおりさん92歳。笑顔が素晴らしい。11時半、福祉センターでトイレを借りた。そこでは、ヨガ教室がありちょうど終わったところ。先生の淳子さんは、民宿くももの隣に住んでいるとのこと。国道を歩いていくと、停車中の車の中から声をかけられて、冷たいお茶のご接待を受けた。運転している女性は、壱岐出身で岐阜に住む近藤さん。マイカーで車中泊しながら亡くなったご主人の供養でお遍路巡りをしているところ。こうした遍路ドライブは今回が4度目という。お礼をして、歩きを再開。一昨日、南に向かっていた時に寄った大岐の浜に来た。そのときは浜を歩いたが、今日は県道から眺めている。波が静かでサーファーはいない。

2日ぶりの大岐の浜。波が静かでサーファーはいない。海の向こうが足摺半島。自分が歩いてきたルートを思い浮かべる。

13時半、アメリカ人親子、DavidとNicolに会い、話。Davidはニューヨーク州立大学の地理の教授で四国遍路はこれが2回目。13時50分、一昨日宿泊した民宿くももの前を通る。台湾から来た女性と挨拶、また、遠くから歩いて来る男性のお遍路姿が「決まっている」のでビデオに撮った。沖縄から来た高崎さんで、比較的短い区間を楽しみながら歩いている、と。私と同じだ。14時半、日本人かと思ったら、上海から来た中国人女性、李チンルイさん。李さんは英語が堪能。ハンブルグ大学の建築学の修士号を持っていて、四国遍路を終えたら、ドイツで建築技術者になるために渡独するそうだ。

上海から来た李沁芮(リチンルイ)さん。四国遍路を終えたらドイツで建築技術者になるという。

今日はいつになく多くのお遍路さんと会って話をした。これは、順打ちの遍路に対して逆向きに歩いているのがその理由だろう。道は海岸から離れていき、下ノ加江の民宿、安宿あんしゅく、についた。洗濯機が二槽式なのが珍しい。宿泊客の中には使い方がわからない人もいるとのこと。購入したのは最近で、この方式が使い勝手が良いそうだ。同宿の城下さんと一緒に夕食。明日は、早朝は曇りだが昼から午後にかけて大雨との予報だ。 [22,488歩 16.71km]   (民宿安宿あんしゅく)

[2024.5.12 SUN] 雨       [目次へ戻る]
*** 下ノ加江から大雨の中三原村へ ***
午後は大雨との予報だったので、宿のご主人を急かせて朝食を終え、6時出発。今夜の宿までは、比較的平坦な道が15kmだ。午前中に着けるかもしれない。下ノ加江川は水量豊かな大きな川。左岸に沿って歩き、小方集落で右岸に渡り、山の中に入る県道21号線を西へ向かう。雨がパラパラ降ってきた。幅の広い舗装道路だが周辺には畑もなくひとけも無く、休憩できる場所も見当たらない。ウグイスの鳴き声が続く。ホーホーホトキチ!若い鳥で鳴き声修行中なのか?それとも土佐弁の鳴き方?

雨足が強まってきた。山深いところに延々と続く舗装道路をがんばって歩く。人家が見当たらず、自動販売機もなく、自動車もほとんど通らない寂しい道だ。9時、道沿いに空の車庫があったので、中に入り雨宿り休憩。家は道の下にあるようだがよく見えない。

三原村に向かう道にて。左手の谷川が下ノ加江川。

12時半、数軒の小さな集落の中にある農家民宿くろうさぎに到着。早く到着しすぎたのでお留守。雨に濡れて外で待っているうちに体が冷えてきた。女将おかみが帰ってきて部屋を用意してくれた。熱い風呂に浸かった後布団に寝て夕方まで休んだ。宿泊客は私だけ。18時、たくさんのご家族と一緒に夕食をいただいた。三原町特産のどぶろくも。今日は、「母の日」のお祝いで、3人のご子息ご一家12人と一緒で楽しい夕食だった。 [25,755歩 19.14km]   (民宿くろうさぎ)

[2024.5.13 MON]] 晴れ       [目次へ戻る]
*** 三原村 – 第39番札所延光寺 – 宿毛市平田 ***.  
雨は止んだ。9時過ぎ、農家民宿くろうさぎを出発。女将おかみが見送ってくれた。

米作農業 三原村中心部は、山に囲まれた盆地で、田が広がっている。出会った農家の方に道を尋ねた後、農業について話を聞いた。この方は、1町歩(およそ100m x 100m)の田で米を作っている。米は、昔は価格が高く良かったが、今は価格が下落し1俵(60kg)がJAで15,000円程度。自分は、良い品質の米を作り、JAを通さずに個人の客にJAの倍以上の価格で売っている。1町歩の田から収穫できる米は6t、米の売値は1町歩450万円ぐらい。農機具や肥料などの支出があり、経営的には極めて苦しい。これから数年後には米作をする人がいなくなり田にセイタカアワダチソウがはびこるだろう。この村では、柚子(ゆず)の栽培も盛んである。柚子は、ジュースに加工されるほか。種子は化粧品に使われる。息子は、測量の仕事をしていて、将来農業を継ぐことはないだろう、とのお話であった。農業に携わる方の現実を目の前にして考えさせられた、

三原村の農家の方。後の畑は柚子(ゆず)。

すずり、どぶろく、放牧 11時、村では唯一の食料品店、みはらのじまんや、に到着。隣の「農業改善センター」で昼食を摂る。ここにはすずりの展示コーナーがある。この村の特産品だそう。12時出発。県道沿いに「どぶろく」の工場の建物を見た。山の斜面に牛の放牧場もある。柚子栽培に加えて、いろいろな産業に取り組んでいると感じた。
13時ごろ、県道から旧道の遍路道へ。登りがきつい。人家もなくひとけもない道だ。峠を越えて今度は急な下り坂。道が県道に合流するあたりに梅の木公園(三原村いこいの森)がある。そこに居た猫の後に付いて道を登るが行き止まり。花の見学路だった。県道に戻り、トンネルを越すと黒川大橋。蛍湖にかかる橋で、中筋川ダムが見える。昔、トンネルも大橋も使えなかったときはどうしたんだろう?中筋川の峡谷沿いに大回りする道があり、これが旧遍路道なのだろうか?この辺りで三原村から宿毛市平田町に入る。
後で調べた。現在、この中筋川ダムを通る道が普通の遍路道だが、以前は真念庵から一ノ瀬川沿いに登り長谷川沿いの天満宮から地蔵峠を越える「真年遍路道」が古道であった。現在通行可能であるが通る人は少ないという。

宿毛市の中筋川ダムと蛍湖。黒川大橋から撮影。

この写真の右手正面の道を歩きダムそばの休憩所でひと休み。ダムの保守をする男性が点検の装備を身につけている。どのような仕事ですか、など話。14時半出発。県道21号は山の中から開けた田畑に入って行く。15時半、土佐くろしお鉄道宿毛線の線路の高架をくぐる。県道は国道56号に合流するが、その直前の川に沿った遍路道を左折。
第39番札所延光寺 16時10分、第39番札所延光寺に到着。御朱印は「金剛不壊ふえ」。ダイヤモンドのように強固な意志、ということか。参拝後、すぐ近くの民宿嶋屋に投宿。宿泊は私一人だけだったが、その後もう一人お遍路さん(正明さん)が泊まることになり二人で話しながらの夕食となった。 正明さんは、2年前に奥様を乳がんで亡くされ、それが動機でお遍路を始められた。  [30,149歩 22.4km]    (民宿嶋屋)   

[2024.5.14 TUE] 晴れ       [目次へ戻る]
*** 高知県宿毛市平田 – 宿毛 – 松尾峠 – 愛媛県愛南町一本松 ***
7時20分出発。延光寺の方に少し戻り、古い遍路道が続く山の中に入っていく。竹林が続いている。30分ほどで里に出た。里の家の庭の木に、着生したセッコクが白い花を咲かせている。木には。フウランやコウモリランも着生されている。ご主人に寒蘭の鉢を見せてもらった。花は咲いていない。

高知県から愛媛県へ – 松尾峠越えの遍路道  (図をクリックすると拡大した地図にリンクします。)

国道56号線の右手の遍路道を歩いていく。10時、松田川の橋を渡る。水量豊かな川。渡り終えたら、高知県で最後の街、宿毛だ。11時、国道沿いの「ほっかほっか亭」で弁当を買う。店内では食事ができない、とのことで近くの公園のベンチでランチ。さあ、これから松尾峠を越えて高知県におさらばするのだ、と張り切って北上。住宅地の外れに「国史跡・宿毛貝塚公園」の表示を見つけ、寄り道。縄文時代後期の貝塚で、石器の他縄文人骨も発見されている。案内板の説明を読んでいるとすぐそばにお住まいの近藤さんが来られた。近藤さんは元お医者さんで、若い頃オスロ大学に留学した体験などを話してくれた。宿毛に住むことになった経緯などもっと聞きたかったが、峠越えを急ぐ。

宿毛貝塚公園にて。近藤さんは、元お医者さんで、若い頃オスロ大学に留学。後方のお宅に住まわれている。歩き遍路を見かけると、よく冷えたお茶のご接待をするのを楽しみにしている。

松尾峠越え 12時、公園を発ち山道に入るが登り道ではない。30分ほどで、開けた土地に錦という集落がある。家の2階から人が話しかけてきた。松尾峠はこの先まだまだだよ、錦では文旦というみかん栽培が盛んだ、と教えてくれる。

錦という集落で2階の窓から話しかけてこられた清家さん。松尾峠はまだまだ先だよ、と。この集落では文旦というみかん栽培が盛ん。

再び、山道に入り20分、今度は小深浦の集落。伝説でもありそうな大きな池がある。この水を田に引くのだと耕運機の男性。さらに山道20分で大深浦。ここから舗装道路を北上して「松尾坂番所跡」に着いた。土佐と伊予の出入国を取り締まるところで、関守は長田氏である。

伊予と土佐を結ぶ街道に設けられた番所跡。遍路が土佐に入るには、東は甲浦、西はここ松坂峠を通らねばならなかったとある。さあ、いよいよ私も伊予へ!

13時半、登山開始。峠まで標高差300m、1.7km。きつい登りが続く。山道のところどころに小学生の描いた絵が飾ってある。「えがおでがんばって」「ちょうじょうのけしきはきれいだよ」などの激励文付きで。15時、峠に到着。宿毛湾の絶景!この峠越えでもひとっ子ひとり出会わなかった。

松尾峠から宿毛湾を望む。小さな2つの島は咸陽島。遠方の陸地は大月町で、高い山は大洞山(458m)。この松尾峠から高知県を後にして愛媛県に入る。長かった高知の遍路旅もようやく終わりだ!

土佐・高知県の遍路旅は長かった、辛かったことも多い。伊予・愛媛県は目の前。峠を越えた途端に自分の目の前がパアーと開けたような気分になった。さあ、これから行く新しい世界はどのようなところだろうか?愛媛県側の下り道は広く勾配も緩やかでベンチも所々にある。高知県に比べて気配りが行き届いている?と愛媛は良いところとひいきめに考えてしまう。

松尾峠


菩提の道場 徳島が発心の道場、高知が修行の道場、そして愛媛は菩提の道場である。菩提とは?そして香川の涅槃とは?調べると、菩提は煩悩を断ち切ること、涅槃は煩悩の火を消すこと、とある。難しいな、私にはまだ修行が続いている。
15時45分、山道が終わり舗装道路に出た。しばらく行くと、伊予側の番所跡に来た。昔も国を越えるのは大変だったんだな。
舗装道路を登ったり降ったり、16時50分、愛南町・一本松の大盛屋民宿に到着。宿泊は私一人だけ。宿の女将が愛南町の産業ー真珠の養殖や果樹の栽培などーでいろいろな工夫がされていると話してくれた。夕食で、カサゴの唐揚げが美味しかった。 [31,925歩 23.72km]  (大盛屋民宿)

松尾峠を越えた伊予側の番所跡。後方の井戸が当時のものという。

その3 愛媛県(前編)      [2024.5.15 ~2024.5.26]  40番 〜 51番

[2024.5.15 WED] 晴れ          [目次へ戻る]
*** 一本松 – 第40番札所観自在寺 – 愛南町御荘へ ***  

愛南町の遍路道  (図をクリックすると拡大した地図にリンクします。)

8時、宿を出発。一本松から40番までは二つのルートがあるが、私は南の国道を避けて、北側の遍路道を選択。弓張、古宅、駄場、札掛、上大道うわおうどうの集落を西向きに通っていく。東のやまなみを振り返る。昨日越えた松尾峠はどこだろうか?

昨日越えた松尾峠方面を振り返る。あの稜線から向こう側が高知県、こちら側が愛媛県。

10時、遍路休憩所で休む。きれいに整備されていた。閉校となっている小学校がある。立派な体育館もあるのに寂しいことだ。この地域も人口が減少しているのだろう。舗装道路とは別に、地理院の地図には無い遍路道があり近道のようだ。大きな案内板が各所に出ている。それに従い歩いていると、自転車に乗った方(高平さん)に呼び止められた。自宅に案内されて、冷たいお茶のご接待を受けた。私が納め札を差し出すと、納め札をたくさん貼り付けたアルバムを見せてくれた。四国では、こうして遍路を接待して納め札を「収集」する方が多いそうだ。高平さんは、今日利用してきた遍路道の案内板を設置するボランティアをしている。本職は畳屋で、宇和島の闘牛に出場する牛も育てている。

愛南町城辺の高平さん。遍路道の案内板を整備をされている。壁に、闘牛に飾る化粧まわしが飾ってある。

暗い遍路道を下っていくと、11時半、僧都川にでた。川の上流(北)に独立峰のような山がある。篠山(1065m)であろう。

篠山(1065m)と僧都川。花はオオキンケイギクか。

僧都川に沿って 川の土手の上を南西に向いて歩いていく。11時50分、休憩小屋で一休み。私が着く前に女性が座っていた。問わず語りに、今日は10年前に60代で亡くなった弟の墓参りに来た。弟は、夜中に崖から落ちた、と言う。仲の良い姉弟だったのだろう。思いがけない話を語ってくれたのは、相手(私)が遍路姿の年寄りだったからではないか。
土手の道は時々オートバイが通るので、階段を降りて河原の道を歩いていく。川の中の岩にカワウやアオシギがひなたぼっこしている。12時50分、川を渡り愛南町の大きなスーパー富士の特設ベンチでランチ。あんぱん、フレンチパン、コカコーラ。同じテーブルに年老いて目が悪そうな男性がニコニコして座った。焼き芋と眼科医の薬を持っている。
観自在 13時半、第40番札所観自在寺に到着。「観自在」菩薩は般若心経の冒頭に現れる仏様。衆生の悩みを自在に観ることができる仏様という意味だ。観音菩薩あるいは観世音菩薩と同じ仏様。「自在に観る」と「どんな音も観る=聞き分ける」と、どちらも味わい深い。観音様は、「母性」を象徴する仏様なのだろう。母は子供たちのことはなんでも気づき、その幸せのためなら身を粉にする。そんなことを思いつつ、いつものように本堂で般若心経を唱えた。
大きなスーパーAceOneで食料を購入した後、14時、民宿磯屋に到着。しばらくして、3、4日前にどこかであった上海出身の中国人女性、李さん、が現れる。玄関に入るなり、松尾峠越えでは大きな蛇がいて、土と同じ色で怖かったと写真を見せてくれた。李さんは、今日松尾峠を越えてここまで来たのだろう。昨夜は宿毛泊まりだろうが、速い!
スマホで会話 おかみの徹子さんと李さんがスマホの翻訳機能で、日本語と中国語を使った会話を始めた。二人とも翻訳機の使い方に慣れているらしい。スマホがときどき翻訳を間違えるようだが、目的は達したようだった。私は翻訳機を見たことがなかったので、二人のやりとりを興味深く観察した。徹子さんは、外国人と翻訳機で話すのがとても楽しく、またボケ防止に良いと言う。李さんは、用事のため遍路を中断して明日朝上海に帰る、6月に磯屋に戻って来るとのこと。
徹子さんは話好きで、ヨーロッパ人の若者が宿泊後お金を払わずに自転車で消えたのを警察に通報したこと、下の写真で猫が居る椅子に大柄のイタリア人男性が座ってひっくり返り椅子を壊したこと、一度ここに泊まった男性が比較的近くに住んでいるので車で寄ったことがある、粗末な家だが実はお金持ちで、伊藤若冲の絵が所狭しと天井まで飾ってあった、などなど話してくれた。 [22,312歩 16.58km]   (民宿磯屋)

民宿磯屋のおかみ、徹子さんと上海から来たお遍路、李チンルイさん。

[2024.5.16 THU] 晴れ          [目次へ戻る]
*** 愛南町 – 柏坂峠・つわな奥 – 宇和島市津島岩松 *** 

愛南町御荘 – 津島岩松、柏坂越えの遍路道  (図をクリックすると拡大した地図にリンクします。)

八百坂から室手海岸 6時10分、民宿磯屋を出発。国道56号線を北上。7時50分、八百坂はっぴゃくざかと呼ばれる峠の休憩所で一休み。8時、右手に遍路道がありそこに入る。薄暗い道だ。ここだけ古い道を保存しているようだ。9時10分、国道沿いで海に面した高台にある民宿ビーチの階段で休憩。ここはヒオウギ貝の商売をしている。このあたりは室手もろで海岸。海の景色が良い。3っつ並んで尖った岩がかわいい。後の島は、横島と小横島か。

室手海岸(もろで海岸)。3っつ並んだ岩が面白い。三ツ畑田島。手前の海上のウキは、真珠の養殖場。この辺りで広く行われている。

柏坂峠越え 9時50分、柏港のローソン着。ゆっくり休憩。自転車遍路中の青年、小島久さんと話。柏港からは国道を離れ東の内陸に向かう。10時40分、柏坂登山口に着く。案内板に、展望台まで4.4km、大門バス停まで12.21km、とある。大門から今夜の宿までさらに7、8kmあるのでのんびりできない。きつい登りだ。所々に、野口雨情の歌碑が立っている。

柏坂の登山道にて。他にも、「雨は篠つき波風荒りよと 国の柱は動きやせぬ」「遠い深山の年ふる松に 鶴は来て舞ひきて遊ぶ」「山は遠いし柏はらはひろし 水は流れる雲はやく」「松の並木のあの柏坂 幾度涙で越えたやら」柏坂は重要な生活道路であり、松並木があった。先の大戦時に軍の命令で伐採され、松根油を航空用ガソリンの代替利用が試みられたが実用化に至らなかったという。なお、雨情は、茨城県出身で旅行した時にこの地を気に入って作詞した。

11時50分、柳水庵到着。大師堂に参り、即出発。逆打ちの女性遍路に会う。この先の展望台からの眺めに感激したという。13時、その柏坂峠・「つわな奥展望台」に到着。確かに素晴らしい景色だ。

柏坂峠・つわな奥からの展望。由良半島の3個の支半島、平碆(ひらばえ)、豆曽、網代、が見え、さらに遠くの陸地は九州・大分県の臼杵、佐伯。つわな奥という地名の由来は不明だが、「つわな」は野草「ツワブキ」のことらしい。

14時、山道の両側が切れ落ちちょっと怖い尾根道に来た。「馬の背駄馬」と表示がある。駄馬(荷を運ぶ馬)では意味が通らない。「駄場」(平らな土地)の間違いで、「馬の背駄場」(両側が切れ落ちて平らな所)ではないか?

狭い尾根道。「馬の背駄馬」と表示があった。駄馬(荷を運ぶ馬)でなく「駄場」(平らな土地)の間違いで、「馬の背駄場」ではないか?

15時、下り道で疲れて林の中の山道脇で休んでいたら、後ろから降りてきたお二人が権藤さんと深谷さん。北九州市?から。

権藤さんと深谷さん。柏坂の下り道でお会いした。高校時代からの親友で、今回は愛媛県の遍路に来た。

津島宿 16時50分、山道が終わり田んぼが広がっている。前述のお二人は国道56号線を歩き、私は芳原ほわら川に沿った古い遍路道へ。。行けども行けども宿につかない。17時、芳原ほわら川を西から東に渡って山沿いの道へ。古い宿場町が時々現れる街道だ。17時40分、津島町岩松の三好旅館に到着。夕食後、別館から本館に戻るため外に出ると、街道沿いに火が灯り宿場町の風情が感じられた。 [44,070歩 32.74km]   (三好旅館)

津島町岩松。街道沿いの夜景。

[2024.5.17 FRI] 晴れ       [目次へ戻る]
*** 津島 – 松尾峠 – 宇和島市丸之内 ***  

津島町から松尾峠を越えて宇和島まで歩いた道(図をクリックすると拡大した地図にリンクします。)


「四国病」 朝食は、同宿のバンナさん、長山さんと3人でいただいた。バンナさんはオランダ人で日本滞在40年の仏教研究者、70歳、日本語が堪能。自分は「四国病」でこれまで22回満願を達成し、そのうち2回は逆打ち。今回は3回目の逆打ちだそう。バンナさんから頂いた納め札は赤色だ。あと3回の満貫で銀色になる。長山さんは東京の社長さん、84歳。昨日柏坂で転んで腰を打った。今朝も痛みがある。柏坂の後に続く10km近い道をよく歩いてこられたものだ。今日は近くの整形外科で治療を受ける予定。

オランダ人のバンナさん。遍路歴23回目の自称『四国病」。

7時50分、出発。宿の前の街道は宿場町の風情を残している。

津島町岩松の街道筋。

少し歩くとこの宿場町の景色は終わり、左に国道56号線、右に岩淵経由の遍路道。右が面白そうと、曲がってから地図を再確認すると、こちらのルートは今夜の宇和島まで12km長くなる。これはまずいと、引き返し、国道に沿って伸びる遍路道を歩いて行く。
松尾峠越え このまま国道56号線に沿って進むと、この先1710mという特別長い松尾トンネルに当たる。これを避けて、松尾峠の山道を歩こう。10時、左手の舗装道路に入る。上り坂がくねくねと続く。本来の古い山道に入る登り口を間違えたようだ(HenroHelperによると、松尾トンネル入り口付近に登山口があるようだ)。11時、旧松尾隧道(長さ464m)到着。隧道の上に古い遍路道の峠があるはずだと探すが、道がわかりにくいので行くのをやめる。トンネルを抜け舗装道路を下っていく。暑い!。11時40分、遍路道へ連絡する小さい橋を見つけた。遍路道は森の中で涼しいが、切り立った崖の上にあり人ひとり通るのがやっとという幅なのでちょっと怖い。12時過ぎ、遍路道が終わり、柿木庚申堂に出た。弘法大師が刻んだ青面金剛の石像が保存されているとのこと。

柿木庚申堂。 右の細い道は古い遍路道の終点付近。

ここから宇和島市街まで約5km。国道に並んで続く遍路道を歩く。道沿いの家に良い匂いの花がある(写真)。15時20分、宇和島中心部にある今夜の宿、リージェントホテルに到着。
明日の予定が決まらない。41番、42番を打った後、歯長峠という難所がある。峠を越える前に一泊しようと峠の手前にある民宿に電話するがつながらないのだ。 [27,396歩 20.36km]   (宇和島市リージェントホテル)

遍路道沿いの家に咲く匂いが強い花。ジャスミン?白花の中に赤花が混ざっているのが面白い。

[2024.5.18 SAT] 快晴       [目次へ戻る]
*** 宇和島 – 第41番札所
龍光寺りょうこうじ – 第42番札所仏木寺ぶつもくじ歯長はなが峠 – 西予せいよ市宇和町 ***

(図をクリックすると拡大した地図にリンクします。)


突然開けた三間盆地 7時50分、宇和島のホテルを出発。ホテルは、緑豊かな宇和島城址公園のすぐそば。市内を抜け、宇和島駅近くの跨線橋に上がった時、城の天守閣が見えた。見事な城だ。県道57号線の東にある遍路道を北に向かって歩く。しばらくすると遍路道が終わり県道を歩いて行く。上り坂の舗装道路で周囲は山ばかり。3時間歩き続けて暑くて疲れてきた。単調な景色ばかりなのに嫌気がさしてきたころ、11時、峠を越えたら目の前がパッと開け水田が広がっている。宇和島市・三間町の盆地だ。予土線の線路を越える。

峠を越えて目の前に広がる三間町。中央に伸びる直線状の道の先に第41番札所龍光寺がある。

龍光寺りょうこうじと仏木寺 11時半、第41番札所龍光寺りょうこうじに到着。ここの山門は鳥居で、一番高い所に稲荷堂があり寺の本堂が一段低い場所にあるのが珍しい。神仏混淆が明瞭に残っているところだ。納経帳に押された印は「寿無涯じゅむがい」。良いことが果てなく続く、という意味か。境内で長身のオランダ人サラに会う。足のマメのケアを始めた。寺の裏から山の中の遍路道を進み里に出てから田を見ながら北上。13時20分、第42番札所仏木寺に到着。こちらの印には「五大に皆響あり」。五大は地水火風空、つまり宇宙の要素は響き合っている、ということ。
歯長はなが峠越え 仏木寺から先どう進むか、を今朝から迷っている。次の43番に行くには、険しいことで有名でかつ山道が最近の豪雨災害で荒れているという歯長はなが峠を越えるか、曲がりくねった県道31号、宇和三間線を歩くか、この三間付近で宿を取るか、の3択である。この近くの「民宿とうべや」に行った。今朝から何度電話しても連絡がつかなかった宿だ。ここ以外に近辺に宿は無い。ご主人は車椅子に座って庭に居る。せっかく来てくれたが足が悪く客を泊められない、と。3択の一つが消えた。舗装の県道を歩くのは嫌だ。迷っていられない、歯長峠を越えよう。14時、山道に入る。しばらく登って行くと、噂の崩落箇所に来た。迂回用の梯子が見える。

歯長峠への山道の崩落箇所。迂回用に梯子が設置されている。

ハシゴを利用して崩落箇所を越え、山道を行くと、遍路休憩所がありそこで道が二手に分かれている。一つは県道につながる平坦な道、もう一つは急な鎖場だ。古い遍路道の鎖場を選んだ。鎖が100m以上続く険しい所だ。それをよじ登り、ようやく平坦な山道となり、15時14分、峠の「送迎庵見送り大師堂」に到着。宇和海が展望できる。峠の案内板に書かれた説明が興味深い。歯が1寸余もある豪傑がここに住んでいたという。

歯長峠(標高538m)からの展望。
歯長峠のお堂内。「歯長」の由来の説明が興味深い。

峠を下りていく。16時、比較的広い道がこの山道と交差している。高森山に向かうとの表示がある。アプリHenro Helperが展望が良いと推薦している山だが、今回は時間的に寄るのは無理だ。この道を横切りさらに林の中を下っていく。
16時40分、県道31号に降りた。ふと見ると、峠の前に出会った、権藤さん、深谷さんが県道を歩いてこちらに来る。国道をお二人と話しながら行く。17時半に二人と別れ、17時45分、今日の宿みやこに到着。ここは宇和町中心部から1kmほど手前の、畑が広がる田舎。ご主人が自動車でローソンに連れて行ってくれた。夕食と朝食を買う。「コンビニのおかげで、歳をとっても素泊まりの民宿を続けられる。」とご主人。
(反省)展望に優れるという高森山に寄れなかったのが残念。宇和島の街の北にある「へんろの宿もやい」あるいは三間町の「民宿みま」に泊まれば楽に行けただろう。 [39,383歩 29.26km]  (民宿みやこ)

[20245.19 SUN] 小雨       [目次へ戻る]
*** 民宿みやこ – 第43番札所明石寺めいせきじ鳥坂とさか峠 – 大洲 ***

(図をクリックすると拡大した地図にリンクします。)



7時、宿を出発。県道の脇に面白い形の真っ赤な花を見つけた。ブラシノキ。

ブラシノキ。オーストラリア原産。化学の研究室で試験管などのガラス器具を毎日洗っていた現役苦闘時代を思い出した。

明石寺 県道から右に折れ、田舎道を登っていく。7時40分、明石寺めいせきじに到着。納経の御朱印には「済世利人さいせりにん」。弘法大師が掲げた言葉で、世界を救い人々に利益を施す、という意味。現代でも通じる貴重な目標だ。
参拝後、寺の裏手の深い山の中を歩いて行く。9時、小学校のそばに出た。宇和町卯之町伝統的建築保存地区がある。

宇和町卯之町伝統的建築保存地区。江戸時代、良質の檜材や米で栄えた宇和島藩の在郷町。

鳥坂とさか峠越え 56号線の西側にある遍路道を北上。11時ごろ雨が降り出した。12時半、お遍路休憩所でおにぎりでランチ。後から来た梶田さんは休まずに出発。13時、鳥坂とさか峠に向かう道に入る。すぐ、「鳥坂番所跡」の案内板を見る。これから行く峠は、旧喜多・宇和両郡の境であり、戦国期には大洲城主宇都宮氏と松葉城主西園寺氏の間で国境争いがあったという。

鳥坂峠への山道

険しい山道を登り、13時40分、鳥坂峠(465m)に到着。展望はない。14時、日天社という社を見て降りて行くと山の中を縫う道路に出た。この道路は高い崖の上にあり、はるか下に鳥坂トンネルの出口と国道が見える。国道を下に見ながら旧遍路道の舗装道路を進む。14時半、「この先崩落箇所を復旧中」の案内板を見て、国道に連絡する道を降りた。
国道56号は、長い長い下り坂。そばを車がビュンビュン通り過ぎて行くので疲れる。国道越しの遠方に見える山は、八幡浜の北に位置する鞍掛山(630m)だろうか、その右は出石山(812m)だろうか?などと地図と見比べる。自動車道路を歩くのは本当に疲れる。遍路道は大洲の街近くまで続いているのに今回工事中のために通れなかったのは残念だった。

国道53号線とその西に見える山。八幡浜の北にある山と思われる。


ご接待 15時半、国道沿いの休憩所で休んでいたら、車から降りたご夫婦の奥さんが私の方に来て、現金を差し出して、ご接待です、受け取ってください、私は病気で足が悪く歩くのが不自由です、という。お礼を言ってお金を受け取り納め札を渡して「病気が治りますように」と申し上げた。ご夫婦と別れて、単調な国道を急ぎ下っていく。歩きながら考える。昔、私自身もにっちもさっちも行かない時があり、解決=救いを求めて、本を読み漁ったり、賢い人を頼ったりしたものだ。バイブルには、イエスが旅をしていると病気だったり足が不自由だったりする人たちがたくさん集まってきたと書いてあるけれども、本当のことだったろう。イエスは、「あなたの信仰が病気を治した。」と話した、とバイブル作家が書いている。弘法大師など高僧が村に現れたら、すがりついてでも話を聞きたいと願ったことだろう。頼ってくる人それぞれが持つ「自身を治癒する力」を引き出す影響力を、イエスも大師も持っていたのであろう。
遠方に街並みが見えてきた。大洲だ。街の中心部に入るのに、また登り坂があり、トンネルを抜け肱川ひじかわ橋を渡っている時、大洲城の天守閣が見えた。17時、今日の宿、ときわ旅館、に到着。旅館のご主人、藤江さんが金剛杖の先を拭き取ってくれた。また、洗濯物を洗って高速脱水機で脱水したものを畳んで持ってきてくれた。ありがたいことだ。夕食後、藤江さん、小平から来たお遍路の梶田さん、のお二人とこれから向かう久万高原以降の宿対策を話し合う。 [42,711歩 31.77km]   (ときわ旅館)

[2024.5.20 MON]      [目次へ戻る]
*** 大洲- 泉ケ峠 – 内子 ***
大洲の街 7時50分、藤江さんが見送ってくれる中出発。今日は、歩く距離がそれほど長くないので国道56号線をのんびり歩いていく。右前方の山は神南山(かんなんさん、710m)、左前方は 妙見山(535m)かな?大洲の街は私の住む東京・青梅と同程度の規模だろうか?街にあるチェーン店が似ている。ケーズデンキ、はま寿司、西松屋、しまむら、ヤマダデンキ、眼鏡市場、オフハウス、セカンドストリート、ニトリ、ユニクロ、ワークマンなど。青梅と違うのは、大洲は旅館やホテルが多い点。調べると、青梅の人口は14万人、大洲は4.6万人。青梅より人口も少なく内陸の大洲がどうしてこんなに賑わっているんだろう?ショッピングモールで休憩。同じベンチに腰掛けた女性が、自分は八幡浜から大洲に移って働いている、八幡浜は何もない田舎で職がない、と話す。9時45分、十夜ヶ橋とよがはしに到着。弘法大師がこの橋の下で野宿をしたと伝わる所。寒くて、1夜が10夜に思われたというのが橋の名の由来。

十夜ヶ橋(とよがはし)の橋の下。大師の野宿像が祀られている。

銀河鉄道999 11時、新谷にいやという所に来た。案内板によると、松本零士の「銀河鉄道999始発駅」とされる場所だという。彼の絵に描かれる山が、今朝から右手にずっと見続けている神南山かんなんさん

銀河鉄道999の始発駅に登場する神南山(かんなんさん、710m)。 大洲の東、新谷(にいや)付近にて。松本零士は、母の里、新谷で少年時代を過ごした。戦時中、彼は新谷を通る汽車や空を横切る米軍爆撃機の光景を見ており、そのイメージが作品に表されている。

泉ヶ峠越え 13時、黒内坊くろちぼうという辺りから左の遍路道に入る。山道になったら急に元気が出てきた。山に挟まれた小さな谷に田んぼがある。ふと見ると、少し高いところに男性が座ってこちらを見て微笑んでいる。徳本さん。この田を耕している方。子供は二人で、孫が4人。その4人のお孫さんが「じいちゃんのお米が一番美味しい」と言うそうだ。

泉ヶ峠に通じる山間部で田を耕す徳本さん。小屋は自分で建てたもので、薪置き場。

徳本さんと別れて、すぐ泉ヶ峠(139.2m)。その先に内子運動公園があり、その下に池。ダムの上に大師像が立っている。内子の町のスーパー富士で食事を買って、15時、民宿やまももに到着。稲田ご夫妻が以前住んでいたきれいなお宅を民宿にしている。女将の稲田富子さんは「内子町街並みガイドの会」でガイドをされている。18時、ご主人が近くの温泉に車で連れて行ってくれた。そこで1時間楽しんで宿に連れ帰っていただいた。 [28,147歩 20.91km]   (民宿やまもも)

駄馬池のダムに立つ大師像と石碑。 バックは内子の町。その向こうの山は明日通る水戸森峠か?

[2024.5.21 TUE]      [目次へ戻る]
*** 内子 – 水戸森峠 – 大瀬 – 上田渡かみたど ***

民宿やまももと経営される稲田さんご夫妻。お二人とも内子の出身で、同い年。私が80歳の歩き遍路と聞いて、自分たちも80歳に向けて元気に過ごそう、と話合われたとのこと。

今朝も良い天気だ。7時、「お遍路ハウス・民宿やまもも」の稲田さんご夫妻に見送られて出発。内子町は、明治時代に「はぜろう」の生産地として栄えたところ。その当時の街並を保存して、観光地として成功している。その景観を楽しみながら歩いていく。

大正時代に建てられた芝居小屋、内子座。昭和60年ごろ復元された。
内子町の景観保存地区。

水戸森峠越え 街並みを過ぎてから、坂を下りて行く。内子の街を去りがたい気持ちで後にし、国道56号線と中山川を渡る。水戸森の集落から山道を登る。後から、昨夜やまももで同宿した山口さんが来て追い抜いていくが、尾根の上で何かを探している。道を見失ったようだ。私が使っているスマホアプリを見ると、ここでフェンスについている戸の鍵を開けて入り、その後締めること、と説明がある。水戸森峠(182m)を越えた。

水戸森峠から東へ降りる。前を歩くのは、昨夜同宿した山口さん。

里に降りたところに「石浦大師堂」があり参拝。その下は県道379号。家並みが途切れ、小田川に沿って歩いていく。9時半、長岡山トンネル(長さ392m)を抜けた。すぐそばに「お遍路無料宿」と看板がある小屋がある。戸を開けて見学した。

長岡山トンネル東側出口そばの「お遍路無料宿」の内部。畳、布団がきれいに整備されている。外にぽっとんトイレがある。

更に歩いて、短い和田トンネルを抜けた所にある屋根付き駐車場で休憩。鉄骨に巣がたくさんあり、ツバメが忙しそうに飛び交っている。しばらく行くと、逆打ちのお遍路さん3人と会う。お遍路さんは、一番多いのは1人遍路で、夫婦、親子、友人など2人もたまにある。3人のグループのお遍路は珍しい。11時、大瀬・成屋に着いた。格子を使った家が道の両側に建ち並んでいる。昔の宿場町であろう。そばにある小学校の校舎も風格がある。2017年完成の新しい建築だ。付近の休憩所でランチ。

大瀬小学校。2017年完成の新校舎。

オートバイに乗った男性が停まり、近くで休んでいる。オートバイを見せてもらう。ホンダRR。2年前に購入したものと言うが、隅から隅までピカピカで新車みたいだ。整備の入念さが伺えた。
筏の里 さらに、猛暑の中を歩いていく。13時、川登かわとと言う集落。「筏の里」という案内板がある。ここで筏を組み、一方で下流の方で流れを堰き止めて水量を増やし、堰を切って一気に筏を流すのだそう。私の住む青梅も、昔、多摩川の筏流しが盛んだったところなので似たような場所なのだ。近くに、「蜂の巣箱売ります」の看板と休憩所。そばに、ユキノシタの大きな群落。

ユキノシタの群落。内子町川登(かわと)にて。

突合つきあわせ集落 田渡川を渡った先に突合つきあわせ集落がある。旧道の分かれ道にある古い宿場と思われ、大きな家屋が軒を連ねている。往時の賑わいが想像できる場所だが、現在、宿や店を営業しているところはないようだ。突合つきあわせから別れるふたつの道は、小田川本流に沿って東(右)に進む道(国道380号に沿っている)と支流、田渡たど川に沿って北(左)に進む道(国道397号に沿っている)だ。どちらも遍路道であるが、私は左折し、北上する道へ。ここから先は久万高原町まで商店が無い山の中の道という。

突合(つきあわせ)集落。右が小田、左は田渡へ、の分岐点。昔の宿場町だったのであろう。私は左の道へ。

時々本道とは別に現れる遍路道に、昔の宿場町の面影があって興味深い。後からオーストラリア人ルークが歩いてきて、一緒に話しながら上田渡かみたどの民宿Tado Villageに着いた。この民宿は2年前に廃園となった幼稚園を転用したドミトリタイプ。内部は綺麗でベッドあり、シャワーあり、浴衣なし。 [35,034歩 26.03km]    (民宿Tado Village)

オーストラリア人のルーク、34歳。テレビ番組のディレクター。田渡川に沿った県道378号線。

[2024.5.22 WED]      [目次へ戻る]
*** 内子町上田渡 – 下坂峠 – 鴇田峠ひわたのとう – 久万高原町 ***

(図をクリックすると拡大した地図にリンクします。)

6時、朝食。ルークは、朝食後ヨガのような体操を20分近くしている。長時間歩く時には必ず実施しているそうだ。7時、出発。ルークの健脚にはとてもついていけない。7時40分、落合というところに分かれ道。国道397号と玉谷川に沿って北に行く道と別れ、田渡川本流に沿っている県道42号(久万-中山線)に入る。川の両側に斜面が迫る山深いところだ。田渡川に堰堤があり、幅広い滑り台のような構造物が見える。あれも筏を通すための工夫なのだろうか?

田渡川の堰堤

9時半、臼杵うすき・本成の三島神社に着いた。鳥居が大きく立派で本殿なども綺麗に整備されている。この辺りは空き家、廃家が多く人家がほとんどないのに、神社だけでなく道端の草も綺麗に刈られ手入れが行き届いている。神社の前に自販機があり、甘酒を飲んだ。
下坂場峠越え 9時40分、畦々うねうねという地名のところで左手の遍路道に入り登っていく。逆打ちの男性に会った。土の山道から砂利道へまた山道へと登って行く。11時、42号線に合流。ここは下坂場峠(570m)。内子町と久万高原町の境だ。42号線を下りて行き、谷間に田んぼが広がる集落、宮成に出た。川は二名川で南に流れている。この辺りは人家も多いが店は見当たらない。
鴇田峠ひわたのとう越え 11時半、二名川の対岸の遍路道に入る。44番札所まで6.1kmとの表示がある。舗装道路を登っていく。12寺半、右手の山道に入る。ここの左手の木の向こうに比較的大きな建物が見える。「てんつき」という民宿であろう。きつい登りが続く。12時50分、だんじり岩に到着。弘法大師がだんじり(地団駄)を踏んだ場所。大師でさえ辛かったんだから自分が辛いのは当然か。さらに山道を登る。山道では、細い糸にぶら下がっている白い蛆虫うじむしのような虫によく出会う。地面から1mぐらいの空中にいるので体にくっつきそうで気持ちが悪い。調べると、「ブランコムシ」とも呼ばれていて、蛾の幼虫らしいが詳しいことはわからない。13時、鴇田峠ひわたのとうに到着。今朝の宿から6時間かけてたどり着いた。林の中で展望はなく、石仏と石塔がある。

鴇田峠(ひわたのとう、標高790m)。右の石塔に、四国を40回大願成就を果たしたとある。

ここからは下り道。今朝からずっと商店がない山道で、昼食の用意ができなかったのでお腹が空いてきた。そうだ、民宿やまももでもらったお菓子があるはずだ。それを食べて少し落ち着いた。13時半、トイレ付き休憩所に到着。14時半、展望が開けた。久万高原の街並みが見える。14時50分、今夜の宿、プチホテル・ガーデンタイムに到着。

鴇田(ひわた)峠から下った山道で眺めた久万高原の街並

8時間の山旅で疲れている上にお腹が空いている。ちょっとゆっくり休みたい、44番と45番はここから往復で参拝するとして、休日を一日加えてここに3泊しようかと弱気になった。が、夕食を食べたら元気が出た。ネットで今後の予定を検討する。明日、44番を訪れた後、45番への道の途中にあり評判が良い民宿八丁坂に泊まろう。明後日、東の山奥、45番岩屋寺を打った後、西に戻って民宿八丁坂のあたりから西方向の山の上にある民宿たかのに泊まろう。そこから松山に向かって山を下ろう。民宿たかのは今日ネットで見つけた宿で展望が良い場所にあるという。すぐ宿の予約をした。同じテーブルに座った林さんにこの話をしたら、即座に自分もその民宿たかのに泊まりたいということになった。 [29,230歩 21.72km]   (ガーデンタイム)

[2024.5.23 THU] 曇のち晴       [目次へ戻る]
久万高原 – 第44番札所大宝寺 – 峠御堂とうのみどう – 下畑野・川甲(癒しの宿 八丁坂) 

(図をクリックすると拡大した地図にリンクします。)

今朝は風邪をひいたように体がだるい。昨日の疲れが残っているのだろう。ガーデンタイムをチェックアウトして、町のファミリーマートでドリンク剤を飲んだり日記の整理をするなど体を休めた。コンビニというのは便利な所で助かる。13時、食堂で昼食をとる。元気が出て、歩きを再開。44番にいく道で逆打ちのお遍路さんに遍路道を聞かれたので、私が使っている英語版のスマホ用遍路アプリHenro Helperを教えてあげた。これには本当に助けられている。14時20分、第44番札所大宝寺入り口の階段に到着。杉の森が荘厳な雰囲気を漂わせている。林の中、坂道を登って本堂と薬師堂に参拝。御朱印は、「法縁」。調べると、仏法に出会う縁、法を縁とする慈悲、とある。15時、参拝を済ませ、本堂前に座っているアメリカ人のお二人と話をした。

第44番札所大宝寺に向かう階段
本堂の前で会ったアメリカ人歩き遍路、Michaelさん(76歳)とMalcomさん(84歳)。遍路旅は2回目で、今回は逆打ち。私の歳がちょうど中間だと席をあけてくれた。

峠御堂とうのみどう越え 本堂のすぐ下から山の中の遍路道を上っていく。およそ30分で峠御堂とうのみどうという峠。その後30分降って舗装道路に出た。
16時半、今晩の宿。「癒しのやど八丁坂」に到着。夕食では、Loganさん(バージニア出身)、林さん(岐阜)、渡部さん(都城)など7人の歩き遍路がそれぞれおもしろい話題を提供して大いに盛り上がった。どなたかが、檀一雄の「火宅の人」に関連して、火宅、仏典、方便のお話をしたのが興味深かった。女性の方が、今回遍路を開始する前にすべての日程を計画済みで、泊まる宿も、88番札所で結願けちがんする日も決まっている、と言う。泊まる前日やその日に宿を探す私と大違いだ。私は、物理教師をしていたとき、授業で「汽車汽車ポッポポッポ・・🎵🎵」のビデオを上映して「相対速度」を教えた話をした。遍路に来て物理の話を聞くとは???と呆れただろう。 [11,828歩 8.79km]   (癒しの宿 八丁坂)

[2024.5.24 FRI]        [目次へ戻る]
民宿八丁坂 – ハ丁坂 – 第45番札所岩屋寺 – 古岩屋 – 千本峠 – 高野(たかの)展望台

久万高原関連遍路道  (図をクリックすると拡大した地図にリンクします。)

7時、宿を出発。舗装道路から右手にある遍路道に入りどんどん進む。気づいたら、間違った道に入り込んだようだ。地理院の地図アプリを見ると山の中に色々な道がある。再確認しながら進む。9時、難所と言われる八丁坂の入り口に到着。

八丁坂の案内板

八丁坂からせりわり行場へ 確かに急な登り坂が続く。9時半、ようやく尾根の茶店跡に着いた。案内板によれば、ここに立っている「遍照金剛」と彫られている高い石柱は1748年(延享5年)に建てられたもの。江戸文化が栄えた頃で、遍路も盛んだったのだろうか。さらにアップダウンが続く尾根道を行く。10時半、急な斜面に広がる薄暗い谷に出た。「せりわり(白山)行場」の表示がある。説明板に、「開山の法華上人(女修行者)が弘法大師に通力を見せた所。岩の裂け目を鎖と梯子でよじ登ったところに白山大権現があり、山岳重畳の眺望で遠く石鎚山も見える。」とある。周囲には、三十六童子の石像が点在して建っている。ここを一人で歩いていると、童子たちが一斉に飛び出してくるかのような不気味な霊気を感じる。

左手に仁王さんのような赤い像。正面にスパッと岩を割ったように見えるのが、逼割禅定(せりわりぜんじょう)。狭い隙間を入ると岩を垂直に登る行場があるらしい。残念ながら今回は行かなかった。
三十六童子行場。この石像は、普香王童子(ふこうおうどうじ)。童子は不動明王に使える一族。このような童子像が谷間の斜面にたくさん立っている。写真には、左手に洞穴、山道の奥に鎖場が見えるが行っていない。

10時半、寺の裏手にあたる仁王門(1790年=寛政2年建立)から第45番札所岩屋寺境内に入る。本堂、大師堂に参拝。本堂は岩壁と一体かのように建てられていて、まさに岩屋寺の名の通りだ。その横には高い梯子が岩壁にかけられていて、登ることができる。一方、大師堂(下の写真)は1920年(大正9年)に建てられたものでその意匠の見事さから国の重要文化財に指定されている。御朱印の言葉は、「修証不二しゅうしょうふに」。修行そのものが悟りであり、悟りのあらわれである、という意味。

第45番岩屋寺大師堂。後にそそり立つ岩壁と一体になって建っている感じだ。

11時40分、寺を後にして階段と坂を降り始める。この道も急で険しい。ふもとから上がってくる人もこの道に苦労している。12時、ふもとに到着。この45番岩屋寺は、表も裏も人里から遠く離れ、アクセスが容易でない場所にある修行の寺であることを実感した。このような山奥では寺の人の生活が不便だろうと、地元の人に聞いてみた。ふもとから南回りで登る自動車が通れる道があるようだ。また、荷物を運ぶケーブルもあるらしい。
(反省)岩屋寺は、古来からの修行の場らしい独特の雰囲気があり、他の札所とは全く違う。もっとゆっくり過ごし、せりわり行場の白山大権現に登ってみたかった。
古岩屋ふるいわや ふもとでは、県道と直瀬川に沿っている遍路道を歩いた。道幅が狭くアップダウンがあるが、木陰が多く涼しい。13時、直瀬川の支流に沿った道を西に向かって行く。渓流や新緑はきれいだが疲れてきた。道が川に突き当たり、岩づたいに対岸に渡り県道に上がる。古岩屋ふるいわやというところで、岩の柱がそびえている。近くに、国民宿舎古岩屋荘がある。

古岩屋(ふるいわや) 約2000年前の地層が残り、礫岩峰が見事な国指定の名勝とある。

千本峠越え 県道を西に歩き、民宿八丁坂の前を通り、15時、千本峠へ向かう遍路道に入った。この道は、山道の変化が大きい。土の道が砂利道になったりきれいな渓流沿いだったのが深い林になったり、面白い。15時50分、山道が大きな岩に挟まれ急に狭くなる。ここが千本峠。下りの道沿いに、高さが1.5mほどのオオマムシグサが沢山生えている。
16時半、民宿たかのに到着。林さんに再会。夕食では、いろいろな話題で話し合った。キリンが開発したプラズマ乳酸菌の話は興味深い。私は、腸内細菌、口内細菌のことなどに関連した体験と、「人の90%は細菌」という本のことなどを話した。 [35386歩 26.29km]  (民宿たかの)

オオマムシグサ 千本峠付近にて。

[2024.5.25 SAT]        [目次へ戻る]
久万高原・高野 – 三坂峠 – 第46番札所浄瑠璃寺 – 第47番札所八坂寺 – 長珍屋
展望台からの山座同定 民宿の庭に設置されている展望台から景色を堪能した。

民宿の主人、森さん(左)、が自作した展望台にて。右端は岐阜出身の林さん。後方眼下に久万高原町の街並。
たかの展望台からの景色と山座同定。(図をクリックすると拡大画面が得られます。)
3日前に超えた鴇田峠ひわたのとうが見える。

仰西渠こうさいきょ 8時20分、民宿を出発、草原を縫う細い遍路道をおよそ一時間降って国道33号に出た。そこに、「手作りの水路、仰西渠こうさいきょ」の案内板。元禄年間に山之内彦左衛門が自費を投じて造った水路のことが説明されている。彼は自身でのみつちを持って工事をしただけでなく、「石粉一升、米一升」のアイディアにより村人の協力も得たという。温度表示板が19°Cとある。涼しい風が吹いているので舗装道路の上り坂でも気持ちよく歩いて行く。左手に黒森山、右手に餓鬼ケ森を見ながら踏ん張って歩くこと2時間。右に三坂峠に向かう遍路道があるのを見逃し急いで戻った。
三坂みさか越え松山平野の展望 杉林の中を進み、12時半、三坂峠のベンチに到着。宿でもらったおにぎりで昼食。谷風が涼しい。カッコーが鳴いている。

三坂峠(みさかとうげ) 標高720m。久万高原町と松山市の町市境

峠からの道はうっそうとした杉林の中、快適な下り坂だ。突然、視界が開けた。ウオー!松山の町が目の前遠方に広がっている。この景色が見えるのはこの場所だけで、その後は再び林の中。その下り坂を飛ぶように降りていく。

三坂峠付近から松山方面を望む。これから歩いていく場所が眼下に見渡せるのが面白い。(図をクリックすると場所を同定した拡大画面が得られます。)

遍路道は幅も広くなり歩きやすい。鼻歌を歌いながら走るように降っていたら、逆打ちのお遍路さんに会った。その方は長い上り坂で汗だく。笑われてしまった。

逆打ちの上り坂で汗だくのお遍路さん(右)と順打ちで涼しげに下って来る女性のお遍路さん

遍路道は相変わらず快適だが、標高が下がるにつれて一気に暑くなって来た。三坂峠が標高702m、浄瑠璃寺が88m。600m以上の標高差だ。15時、浄瑠璃寺に到着。御朱印の文字は、「一字含千理」(一字に千理を含む)。弘法大師による般若心経の解説書にある言葉で、「真言は不思議なり 観誦かんじゅすれば無明を除く 一字に千理を含み 即身に法如を證す」。真言(マントラmantra)は呪文のようなもので、般若心経では、「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボデ、ソワカ」
三句五転 ついで、1km離れた八坂寺の参拝を済ませた。八坂寺の御朱印は、「三句五転」。大日経にある「三句の法門」は、「菩提心を因とし、大悲を根として方便を究竟とす。」世のため人のために役立つためにはまず自身を研鑽する菩提心を持ち、他人の悲しみを受け止める大悲で他者に接する気構えを持ち、他者を救うため相手に応じた手段・方便を駆使する、と言うことであろう。五転は、発心、修行、菩提、涅槃、方便。このうち、発心〜涅槃の四っつは悟りの過程を示していると理解していたが、「方便」が加えられたのは、実践の重要さを示したのであろうか?
ふしあわせ 八坂寺の階段の上に、森白象の短歌がある。「遍路のもつふしあわせ」のうた。自分、そして人々が持つ不幸せについて思い、気が沈んだ。16時に今日の宿、長珍屋に到着。 [30801歩 22.28km]  (長珍屋旅館)

「お遍路の誰もが持てる不仕合」 (森白象) 八坂寺にて。

[2024.5.26 SUN] [目次へ戻る]
長珍屋 – 第48番札所西林寺 – 第49番札所浄土寺 – 第50番札所繁多寺 – 第51番札所石手寺 – 道後温泉
長珍屋で、昨夜から食事時に傍若無人の振る舞いをしている一団が居る。坊さんの姿をした人が率いて、今朝も、朝食時、食事をせずに高笑いなどやかましい。宿の若旦那に苦情を言ったが何もしない。席に戻り、静かにしなさい、と一喝した。後で女将が謝りに来た。今回の遍路で唯一の不快な出来事だった。
7時45分、宿を出発。8時半に、「遍路開祖 衛門三郎札始め大師堂」に到着。

小村大師堂 (遍路開祖衛門三郎札始め大師堂)天長元年(824年)、空海が雨を防ぐため、にわかづくりの草案を結ばれた場所。近くに住んでいた衛門三郎は、空海を乞食として追い払った。その後三郎は深く反省し、空海に許しを乞うためこの草庵から旅に出た。遍路の始まりと伝えられる。

9時30分、重信川にかかる久谷大橋の上から東と南に広がる山波を見渡し写真を撮った。

松山市の重信川にかかる久谷大橋から南の山並み。写真を解析し山座同定した。あの遠い三坂峠から歩いてきたかと思うと感慨深い。

10時、第48番札所西林寺に到着。御朱印は、「清浄」。参拝を終えて納経所でご住職の母上とお話しした。三浦さんは93歳とは思えない若々しさだ。11時、マクドナルドでランチ。このあたりは松山の住宅街。街の人に、歩いているんですか?大変ですね、などと話しかけられた。
空也上人像 13時、第49番札所浄土寺に参拝。御朱印は「遍照金剛」。浄土寺には、公開していないが、寄木造りの空也上人の像がある。口から小さな仏像が飛び出ている。南無阿弥陀仏と唱えると一語一語が阿弥陀様になったという姿だ。中学校の時に美術の時間に習った、京都の六波羅蜜寺の像とよく似ているが、それに比べてしわが多く高齢の空也像ということだ。
浄土寺の裏手の道を登っていくと大きなお堂に出た。日尾ひお八幡神社。山を下り、住宅街の細い路地を伝っていく。14時、第50番札所繁多寺到着。山門で、ストラースブルグから来たフランス人女性と話。繁多寺の御朱印は、「大菩提心」。繁多寺からは街中を北上。石手川の橋を渡り、15時半、第51番札所石手寺を参拝。境内の三重塔が素晴らしい。ここの御朱印は「明星来影」。これは空海が室戸岬で修行した時の言葉で、谷響きを惜しまず明星来影す、から取られている。道後の宿は温泉本館のすぐ近く。温泉本館でゆっくり湯に浸かった。湯加減が良くしっかり温まった。 [27,078歩 20.12km]  (エコホテル道後)

*********  
松山・道後で区切り 今回、3月26日に高知駅で遍路を再開して、ここ松山道後にたどり着くまで、前半6日、後半23日、合計29日かけて、高知 – 窪川 – 中村 – 足摺岬 – 宇和島 – 久万高原 – 松山道後を経由する遍路道675kmを歩き通すことができた。今回はここで区切り、機会を見て残る37札所の遍路道を歩こうと思う。今回の遍路では、深山の険しい峠道を独りで越える機会が多かったことが感慨深い。自分の普段の体力では考えられない力が出たように思う。これは、弘法大師の徳の支えと共に、地元の方々による道の整備、遍路文化に対する信仰と理解のおかげであろう。宿のご主人や女将、また遍路の方々、あるいは土地の人々など、多くの方々と巡り合い親しく話ができたことは忘れ難い。あの方々は、それぞれ観音菩薩が姿を変えて私の目の前に現れたのだろう、とも思う。 
   今回(2024年3月〜5月)の歩数、道のり合計  907,867歩 674.55km       [目次へ戻る]
ここまでお読みくださった皆様に感謝いたします。{mail to: tmoritani@mac.com)
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コメント

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